雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

理性でなく感情に訴えることの意味とは(遺族報道について思うこと)

 2016年が始まった。世界は(中東やら、北朝鮮やら)いろいろと動いているけれども、日本で何より話題をさらっているのは軽井沢の峠道でのバス事故のようである。亡くなった方に心からお悔やみを申し上げたいと思います。
 ガ島通信こと藤代裕之さんが「ソーシャルメディア時代の顔写真報道について考える」として、いわゆる遺族報道について丁寧に説明している。gatonews.hatenablog.com

 私は、記者という仕事を始めたときから遺族取材というものが途方もなく苦手であり、いまでも苦手なままである。その因果か、いまは少し(日本での)遺族取材から離れた立場で記者をしているけれど、少しだけコメントをしたい。

 シリアで何十万人という人が亡くなっているけれども、欧州(いや世界の)の政治を動かしたのは、トルコの海岸に打ち上げられた3歳の子どもの遺体写真だった。つい昨年のことなので記憶に新しい。遺体写真は日本のマスコミのコードでは原則として掲載することができないが、欧米のメディアでは多く掲載された。インターネットの時代なので、写真は日本でも見ることができる。
www.bbc.com
 洋の東西を問わず、匿名の死には人は感情を動かされないものなのだろう。感情を動かされなければ(つまり「自分に身近なこと」と感じられなければ)、市井のごく普通の人々は、なかなか意思表明することが難しいのかもしれない。第一に、みんなそんなに暇ではないし。
 欧州の高級紙では、いわゆる事件事故の犠牲者の顔写真をことさらに掲載することはない。これはいわゆる「理性」を道具に仕事をしている人々、たとえば弁護士、官僚、医師、研究者といった人々ー が、感情によって世論を動かすこと、たとえば遺族報道というもの全般に否定的な態度を取ることと関係しているように思う。
 こういった人々は職業上、感情によって自らが行動したことを認め、公言することはある種の「恥」なのだろうし、これは仕方のないことなのではないかと思っている。そういった方々は、報道においては、亡くなった人々の身上といった「つまらない話」ではなく、より事故原因の背景や、医療体制、あるいは法的規制といった”深い”報道をするべきだという論旨を展開されることが多い。もちろんそれはとても重要なことだけれども。
 つまり欧州の高級紙は「感情でなく理性で行動している」ことを誇りとする人(階級)が読むものなのである。レトリックを駆使した文章、語彙も難解だし「いち早く伝える」ことすらも必ずしも重んじられない。それゆえに部数も極めて少ない。*1

 ただ、理性を持った人々が唱えれば、正しいことがすんなりと政策化され、実行に移されれる世の中であるのなら、苦労はない、というのも事実だ。弁護士ですら、国賠訴訟では原告団を組織し「世論に訴えて」街頭に立つ。それによって、和解なりなんなりでそれなりの果実を得る、最高裁判決まで何十年もかかる間に原告が亡くなってしまう訴訟も多い。これも一種の制度の不備だと思うけれども。世論の「情」に訴えかけること、それは一概に否定されることでもないだろう。
 いまの民主主義政体では、何らかの思いを法的行政的な枠組みに落とし込むためには、つねに政治というものが間に入ることになる。その政治は、世論の動きに左右されざるを得ない。マスコミにいる人間からしても、世論とは変わりやすく、気まぐれで、やっかいなものである。しかも忘れやすい。
 人というものは匿名の大量死に眉一つ動かさない代わりに、実名の死のストーリーには(好悪いずれにせよ)感情を動かすのだとすれば。。。

 ただ時代は少しずつ確実に変わっている。古い交通事故のニュース報道を見れば、事故を起こした運転手に記者会見をさせ、遺体確認の現場にまで映像カメラが入っていた。かつては「何でもあり」だったことが分かる。ただ、センセーショナルに遺族の悲しみを伝えてきたことが、日本の乗り物を世界一安全にしてきたことも一つの事実だろうと思う。*2
www.youtube.com


 世論を動かす、なんておこがましいことを思ってはいないにしても 匿名でなく実名を追求することで、読む人、視る人に何がしかの気持ちを呼び起こし、何らかの制度改善につながれば、という思いで取材している現場の記者は多いと思う。興味本位の野次馬ではないのだから、そうでなかったら困る。*3現実は厳しいのだけれど、そうでなかったら、現場に立つ資格がないでしょう。
 今回の現場も各大学、各地に拡散していて、若い記者が大量動員されている(自分もかつてその一人だった)のだろうけれども、数合わせに終わったら、それこそ恥ずかしい。遺族の人生はこれから何年も続くし、事故の調査も数年がかりになることが普通だ。*4
 遺族は事故を忘れられることを恐れる。時間がたち気持ちが落ち着けば、さまざまな意味で世間に訴えかけたいと思う遺族も必ず現れる。マスコミ、特に影響力の大きいテレビメディアが真っ先に忘れるのが実態なのかもしれないが、それは悲しすぎる現実だ。
 フェイスブックツイッターで写真が公開されていると言っても、紙面化する以上はその写真が本人に間違いないかどうか、本人を確実に知る人に確認する作業は欠かせないはずである(なりすましもあるだろうし、そうでなかったらただの誤報だ)。逆に、大手マスコミが遺族報道を一斉に自粛して、匿名で淡々と事実を報じるだけだとしたらどうか。結局のところ「大手マスコミが報じない…」というソーシャル情報が拡散するだけなのだとしたら、そういった自主規制をしたとして、いまやどれだけの意味があるのか。そういう時代でもあるのだと思う。

*1:インターネットの普及によって、こういった概念も少しずつ変質しているのも事実だが

*2:逆に市民の側から「ゼロリスク」を要求することが当たり前になってしまったという悩みもある

*3:現場に行くと、そうでない人がたくさんいるのも悲しい事実なのだが

*4:そういう意味で、経験の浅い若手に遺族取材を任せるのがいいだろうか、という思いもある。またマスメディアの経営が厳しくなる中で、やがて人数をかけての遺族取材自体が態勢的に不可能になる将来も起こり得る