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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

「危ない」地域に行くということ

 危ないことをしているつもりはないが、「危なくないですか」と聞かれることがある仕事をしている。シリアに行ったことはないけれど、中東に住んだことはある。ウクライナも行った。今住んでいるところも、日本人の感覚で言えば「安全」とは言い難いイメージのあるところだ。
 「危ない」ってなんだろうか。生きている限り日本であっても、東京であっても危ないことはある。東日本大震災があったばかりだ。
 いま、日本の男子文系大学生の就職ランキング上位は総合商社が占めている。商社は給料がよい。「安定している」。良い給料は何で稼いでいるか。決算書を見ればすぐ分かる。資源ビジネスだ。資源はどこで開発し、どこから輸入しているか。日本人が言う「危なそうな」国のオンパレードだ。アルジェリアでのBPのプラント襲撃で、日揮の関係者の方が多数亡くなったのは、まだ2年前のことだ。テロだけではなく、寒いのも、暑いのも、伝染病も相当に危ない。「危ない」ところに行かなければ、稼ぐことができない。東アジアのライバル、中国、韓国企業に負ける。競争はそこまで来ている。

 「業務ならば」危険なところに行くことが許されるのか。逆に業務であれば「行かなければならない」のか。(フリーを含め)ジャーナリストも業務である。ただ一般に小企業で資本の量が違うだけだ。功名心だと言うが、資源ビジネスにも功名心はある。企業の方から戦争中のイラクに「どうやったら(安全に)行けますか」という問い合わせを受けたこともある。
 もちろん使命感もある。「自分がここで書かなくて(撮らなくて)どうする」という現場もある。でもほかの仕事でもあるはずだ。開高健氏の小説ではないが、戦場記者(基本的にカメラマン)はちょっともてるらしい(自分のことではない)。しかし強い使命感を持った韓国のキリスト教系ボランティアがイスラム圏のアフガニスタンに行って拉致され殺害されたという事件もかつてあった。
 文化圏が違えば、強い使命感があれば何をしても許されるというものでもない。逆に、少なくとも倫理的に堕落していなければ、責められることはないはずだ。

 「日本外務省が行くな」というところには行かないのか。では逆に「日本外務省が行っていい」という外国で死んだら、日本政府のせいにできるのか。少なくとも自分は「日本政府の責任にできるから」と言って、負傷したり死んだりはしたくない。
 最終的な自分の命に対する責任は、国家でなく自らが負うものだ。少なくとも、自分は仕事に行くときは、国内であれ国外であれ、確実に無事に帰る、という確信を持つことができるまで準備する。
 紛争地で最高のホテル、頑丈な車に乗ることが常にベストとは言い切れない(目立つことで逆に狙われる危険もある)が、その方が一般に安全性は高いだろう。優秀なガイドがいれば、リスクは低くなる。優秀な機材と優秀な人はどこの世界でも高価だけれども、世界の果てで負傷すれば、緊急搬送に高額の医療費がかかる。無事に帰るのが一番安いのだ。
 よき戦争報道の条件は何か、と問われれば(必要な安全度が確保できるまで)待つことができる心の余裕と、安全上必要なときに惜しみなく投じることができる十分な資金ではないだろうか。

 日本の外務省の職員の方は、心ない批判があったり、実際やる気のない人も傲慢な人もいるのだろうが、現場では一生懸命やっている方も多いように思う。ただ、当然ながら外務省の人が「直接」稼いだり、「直接」報道することはない。だから、どうやったら稼げるか、どうやったらいい記事、映像が出るか、そういう面での情報収集や積極的な判断にモチベーションは向きにくい。「行かなければ(より)安全です」という方向に判断が向かうのも自然なことだ。

 人間が行動する限り、リスクはつきまとう。中東で「自分探しをしたい」と思っている若者たちにもたびたび会った。シリアは当時、中東でもっとも安全な国の一つだった(アサド政権が自国民を激しく抑圧していたから安全だったのだが)。若いうちに価値観の違う国を自分の足で回るのは、悪いことではない。危ないところになんか行かなければいいじゃないかといいながら、「最近の若者は冒険心が足りない」とか言っていたとしたら、それはひどい矛盾だ。彼らの判断を助けてやるのが、大人であり、国民の属する国家の仕事だ。

 今回の後藤健二さん、湯川遥菜さんの事件では、きわめて残念な結果になった。非武装の民間人を殺害するのは何であれ許されない。お二人は死亡した公算が大きいとされており、なぜイスラム国支配地区に安全に入って戻ってこられると判断したのか、どうリスクを評価したのか。具体的に知るすべはもうない。
 ただし、湯川さんが拘束された時点で、すでに”イスラム国”による英米のジャーナリストの殺害報道があったのだから、どのように安全が確保できるか、不測の事態(報道ではガイドによる「裏切り」も示唆されているが、案内者の信頼性についての評価も想定の中に入っていたはずだ)への評価は慎重に行うべきだった、とはいえる。
 もちろんそれは慎重に行っていたのかもしれないのだ。だから、一部外者が「軽率だった」と非難することは控えたい。今回の場合両氏には、所属する組織もないし上司もいない(もちろん組織記者でも、戦場の状況は日々に変わるので、現場判断にゆだねざるを得ない部分は多い)ので、その判断経緯は本人以外には分からない。

 伝えられているところでは湯川さんはシリア反体制派の軍事行動に同行したいという願望を持っていたという。その願望を聞いていた後藤さんは、湯川さんの拘束を知った後、自力で情報収集し、自ら奪還しようとして拘束されたとされる。
 湯川さんが「参戦」に行ったのでなければ、ある意味での”自分探し”や”冒険”に行ったことは、それ自身責められるべきことではない。*1イラクで命を落とした香田証生さんも同じだし、たとえばかつてカンボジアポル・ポト派に捕まり殺害されたカメラマンの一ノ瀬泰造さんも同じだ。
 それは根源的に言えば、ヒマラヤの高山に挑戦するのと変わらない。ただし(死に場所を探しに行ったのでないとすれば)自らの命を落とす結果となったのだから、それは誤った判断だ。仮に、湯川さんが死に場所を探しに行ったのならば、後藤さんを巻き込んだのだから、非難は免れない。

 私は山には登らないけれども、山登りを免許制にすると言ったら反対する。リスクを取るのは本来、自由意思であるべきだ。しかし、遭難したときには、献身的な努力をもってしたとしても他者による救助に限界があることも、また知っておくべきだと思う。

 そして、後藤さんがどれほど高潔な人格で、これまでプロの戦場ジャーナリストとしていかに立派な業績を残していたとしても、結果的にすべての目的を達成できなかったのだから、プロとしての今回の行動には疑問符が付く。プロは生きて取材成果を持ち帰って(昔はフィルムやテープだった)、初めて評価の対象になる。後藤さんは本当に立派な人で尊敬するべき人ではあったけれども、「英雄」ではないはずだ。
 そういう思いを一番深く持っているのは、もっとも近しい人たちのはずなのだが。

 国家とか、安倍政権とか、日本の中東外交の成否、交渉経過の是非、身代金の是非、そういったものを問うのは、そのはるか後でいいのではないか。さらにいえば、自己責任だと主張し「政府に迷惑をかけるくらいなら自決せよ」とまで言う人々と、「安倍政権の判断ミス」だと声高に主張する人々は、いずれも価値判断の根を「日本政権」と「反日本政権」によりかかっているという点で同根だ。
 人の命はかけがえのないものである。命を一番大事に思っているのは本人だ。国家や周囲の人々はさまざまな情報を提供し、判断を支援し、若者であればあるいは説得もするかもしれない。だけれども、危険の判断を行うのは、最終的には本人の人格であるべきだ。

 もちろん、行く側の「リスク」だけではない。今回の事件には殺害した容疑者がいる。その組織「イスラム国」ととイスラム、そしてムスリムイスラム教徒)について、日本であまりに理解されていない、そしてそれを不十分なままに大量の報道が積み上がっているという悲しい現実についても思うことはあるのだが、それは機会があればまた。

*1:一応、私戦予備罪を構成する可能性がある、という理解はもちろんした上で