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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

「市民の敵」はネオナチからイスラム主義に移るか

政治・経済・国際 メディア 旅行・地域

 サーバー屋さんからパスワードが破られたという連絡があり、対応に追われた。海外からのアクセスを止めるのが効果的という指摘だけれど、海外にいるとそうすることも難しい。

 パリの新聞社へのテロをめぐって、日本の言論も盛り上がっている。もちろんこれが「パリの、新聞社だから」ゆえであって、9.11テロも「ニューヨークだから」なのである。政治テロというのは常にそういう意味合いを持っている。田舎でやったのでは意味を持たない。

 西洋思想の専門家でもイスラム主義の専門家でもないのだが、基礎的な共通認識が欠けている発言もあるように思われる。
 基本的には、「下品だろうと何であろうと、言論に対抗するのに暴力を用いてはならず、まして殺害などもってのほか」というのは、民主主義の基本原理である。言論を統制すれば世論形成がゆがみ、多数決による意思決定もゆがむからである(故に、「言論の自由」にはその伝達を含む「報道の自由」が含まれると解される)。もっと簡単に言えば、これは欧米的(西欧近代的)なるもの、もっといえば(戦前的ないい方をすれば)「一等国」であるための基本原理である。
 もちろん、これに疑義を唱えることも(唱えるだけであれば)言論の自由ではあるけれども、言い出した時点で、その人は、例えばそれが認められていない中国に対する「倫理的優越性」を主張する権利を放棄することになる。そこには裸の権力闘争しか残らない。それでよい、そういう政治観、倫理観なのだという人はあまりいないと思うのだが。
 一方で、「イスラム主義」が目指す社会は、必ずしも暴力的、権威主義なものではないかもしれないのだが、西欧に源を発する「民主主義」的な原理とは異質な部分を含んでいる。とりわけ急進的でその勢力を増しつつある、いわゆるイラクとシリアの「イスラム国」などを含む「ジハード主義者」においては「敵」に対する暴力に訴える傾向が顕著だ。*1

 事件について。西欧市民社会でこれまで、これらの価値に対する挑戦者として想定されてきたのは、ネオナチに代表される極右主義者だった。そこに、多くが移民出身の過激なイスラム主義者のグループが、脅威としてはっきりと姿を現したということだろう。ネオナチは排外主義を伴っていたが、西欧におけるイスラム主義者の多くは中近東、アフリカからの移民出身者であり、立ち位置はこれと対極にある。
 ファシズム論の中では「民主主義を破壊しようとする勢力に対し、民主主義者がどう対抗すべきか」というテーマは古くからの論点であった(ドイツではナチズムは非合法である)が、これからの西欧市民社会はさらに「急進的なイスラム主義勢力に対し民主主義をもって対応するべきか、否か」という点に議論が向かうかもしれない。
 一応言っておくべきかもしれないが、ここでの「民主主義」は西欧近代主義者においては「普遍的な価値」ではあるけれども、「対抗すべきか」という法政治学的議論は、それぞれの地域領域内(それぞれの欧州国内、あるいは欧州連合(EU)内)で行われざるを得ないだろう。西欧的な「民主主義」を中東をはじめとするイスラム世界にいきなり持ち込む「十字軍」的な行為の困難さは、30年前のイラン革命、9.11後のアフガニスタン、10年前のイラク戦争、3年前の「アラブの春」以降の推移をみれば明らかだ。

 しかし、これが西欧近代主義者が喝采を浴びせた「アラブの春」から3年後の現実であったとは。アラブの春については3年前に記し、そのままに残してあるた一連のメモを参照いただければよい。

 

pavillon.hateblo.jp

 


 しかし「次に飛び火するシナリオの中で、もっとも危険なストーリー」と書いたシリアでまさに大規模な内戦となり、エジプトでは結局「民主的な選挙」でイスラム同胞団が政権掌握し、それに対するクーデターで軍政が復帰、同胞団は非合法化された。それぞれ読み返すとあまりに示唆的だ。原油価格はシェールオイルのおかげで高騰しなかったとはいえ…

*1:イスラム主義者が目指す「理想社会」はまだ現実のものとなっていないので「民主主義と相容れない」と言いきることはしない。これについてはまた機会があれば。このエントリはあくまで「日記」の一部であるから。