雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

政権崩壊-2月22日の謎(ウクライナ・メモ3)

f:id:uprazhnenie:20140226000543j:plain
 実はここまで書いて、まだヤヌコビッチ政権が崩壊していない(苦笑)。

 「2月21日合意」への署名は、現地時間の夜に行われた。深夜に合意を広場で発表した野党指導者は「一斉にブーイングを受けた」と伝えられている。大体において政治的妥協というのは不人気なものである。
 事態が急転したのは翌22日だ。22日は土曜日で、ロシア語話者が多く、与党地域党が強い東部にあるウクライナ第2の都市、ハリコフでいわゆる親ヤヌコビッチ政権の地方指導者と地方議員を集めた緊急会議が行われることが決まり、大統領はそこに向かった、といわれる。政治的に守勢に立った指導者が、地盤に戻って決起集会を行う、というのはよくある話のように思える。
 しかしこの日にキエフでは大統領府が占拠され、ティモシェンコ氏がまさにそのハリコフの刑務所から釈放され、あとから見ればこの日に政権が崩壊したと言える日となるのだが、この日、なぜ権力が空洞化したのかは不明のままだ。

 23日段階で、その集会が行われる近所に住む住民の話を聞いた。21日からすでに集会の準備は進み、22日には近隣のバス路線が停止され、大統領が来るセキュリティが確保されていた。実際に集会は開かれ、反野党の決議も行われている。しかし大統領は集会に現れなかったことが確認されている。
 大統領は22日にハリコフでテレビに出演している。「21日に(キエフで)銃撃を受け身の危険を感じハリコフに逃れた」と語っていたが、集会はすでに計画されていたものだった。最高権力者が首都で銃撃を受けるような状況が事実だったとして、それをハリコフに逃れる理由としたのは疑わしい。
 後日のウクライナ国内報道では、ヤヌコビッチ氏は22日、ハリコフに来たが「ずうっと電話をしていて集会に出ることはできず、そのままハリコフを離れた」と伝えられている。いったい誰と電話をしていたのか。また22日にドプキン・ハリコフ州知事とケルネス・ハリコフ市長が出国していた(ケルネス市長は「仕事でロシアとジュネーブに行っていた」と述べ、実際に23日に西側からの飛行機で戻ってきた。ドプキン知事はどこからか24日に戻ってきた後、大統領選への出馬を表明)が、彼らはその間何をしていたのか。
 また、22日中に「手際よく」ティモシェンコ元首相が釈放されていたのはなぜか。この日の動きにはあまりにも疑問な点が多い。なお、22日夜には筆者もハリコフを訪れたが、中心部を含めて治安状況はまったく平静だったことを伝えておく。

なお、2月28日に記者会見したヤヌコビッチ氏は22日の行動について下記のように述べている。(朝日新聞・関根和弘記者の記事による。ツイートも補充的に参照)

――なぜキエフから逃げたのか。
 「逃げたわけではない。東部ハリコフに移動しただけだ。道中、車列が発砲された。2月22日に警護担当局が『ハリコフに過激派が到着した』という情報を得た。前国会議長と大統領府長官には東部ドネツクに行って支持者を集め、今何が起きているかを語って欲しいと頼んだ。自分は南東のルハンシクにヘリコプターで向かったが、結局、ドネツクに引き返し、車で夜遅くクリミア半島に到着した」*1

 現在のクリミア問題を含めたウクライナ政治の全ての混迷の根源は、21日夜の円卓合意にも関わらず、22日になぜか「権力が空白となった」ことである。ロシア側の主張のようにこれを「違法クーデター」と断じるか、野党勢力による「革命」と称えるかはともかくとして、これは事実だ。
 「誰が、何の意図で」空白状態を作り出したのか、あるいは偶然だったのか、それは検証としては非常に重要だ。ただ、事態はすでにはるか先に到達していて、「この段階に戻せ」という政治的主張もまた、今の段階では意味を持たないだろう。

*1:クリミアのセバストポリ近くのバラクラバではヤヌコビッチ氏の息子が海浜リゾート事業を手がけており、そこから船で出国したとの観測もある。