雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

記者がみる「科学報道」とiPS治療の虚報

 東大病院の森口尚史特任研究員がiPS細胞を重い心臓病の患者に移植する治療に成功したと11日の読売新聞が1面と3面の2ページを使って特報、さらに11日の夕刊1面でもインタビューを掲載して報じたが、実際には(おそらくは)まったくの虚報、という結果になりそうだ。共同通信日本テレビも後追いをして本人などに確認し報道したが、やはり誤報であるとみられるとすでに発表した。

 森口氏をめぐっては、過去に他の「研究」をめぐっても、発表された内容に重大な疑義があることが分かってきた。マスメディアが「研究者」に振り回された例としては2000年に発覚した、「旧石器ねつ造事件」以来のおおごとである。

 いわゆる「マスコミ批判」の文脈から、あるいは学会内の広報のありようを含めて、ネット上で多くの指摘がなされている。東北大医学系研究科の広報室長でもある大隅典子氏が書かれた「森口騒動と大学広報」は、「発表する」立場からの現場の事情が説明されていて、科学コミュニケーションの立場からみても、非常に興味深い内容だと思う。

 では、発表を受ける立場から見てどうか。「ちゃんとチェックすればよかった」という総括は、それはそれで真実なのだけれど、再発を防ぐ上ではまったく役に立たないだろう。

 また「特報」、つまり先行する立場だった読売新聞と、追う立場だった共同通信日本テレビには、まったく違った力学が働いていたとも容易に想像される。

 

 ここ10年ほど、おそらくは国立大学が独立行政法人化されて、しかも国が決める重点領域に研究費を傾斜配分するという国の政策が始まってからなのだろうけれども、大学ないし公的な研究機関が出すプレスリリースの数が激増しているのは事実のようだ。有力大学の広報、NatureやScienceのような国際大手科学出版メディアだけでなく、聞くところでは、科学広報専門のPR会社みたいな組織も存在し動いているという。なぜそうなったかといえば、「マスメディアに記事化されることで、研究環境が有利になる」という意識が昨今ことさら強く働いているとしか考えられない。

 極端に単純化した図式でいえば、たとえば新聞に大きな記事が載れば、文部科学省の覚えがよくなり、科研費が取りやすくなる、というような「信仰」めいたものがどこかにあるのではないか。そうでなければ、忙しい研究者が手間暇かけて、物わかりの悪い新聞やテレビの記者にことさら丁寧に説明するようになる動機なんて存在しないからである。

 一方で原子力を含めた科学技術、医療の広大な分野すみずみまで専門家を配置できるようなマスメディアは存在しない。しかし、他社が大きく報じたものを「落とす」ということはやはり会社員として許されないので、リリースの海に溺れる科学記者は、いまかなりの不安心理の中で暮らしていることになる(だろう)。リリースが大量に出るということは、どう努力したとしても、一つ一つの内容を吟味、評価する時間が減少するということにつながっていくからだ。

  今回「報道を見送りました」と書いているメディアも、説明文を読む限り、「これはどうも(人物的に、手法的に)うさんくさい」以上の説得力を持っていたわけでもない。今回、実際に手術していたのなら文句なく1面トップのニュースだったわけで、「万一本当にやっていたら大変なことになっていた」と、逆の意味で胸をなで下ろしている記者がいないとも限らない。

 そういう競争ゲームが存在しているのは実態なので、「そういう速報主義がけしからん」と評論するのはたやすいけれども、「じゃあ慎重に吟味して、反証なり追試が出そろった後で横並びで」いいか、というとそれも違うだろう。

  さて、各紙の検証記事を見る限り、今回の森口氏の場合、初期段階では森口氏自らが大学を通さずにアプローチしてきたようだ。こういった場合、普通の記者であればかなりの警戒心が働くのが自然だ。逆に、森口氏自体がそれを突破するだけの相当な説明をもって臨んでいたということも推定される。読売新聞の検証記事は:

 

「米ハーバード大学客員講師」を名乗る森口氏が、iPS研究の話を読売新聞記者に持ちかけてきたのは9月19日だった。10月1日には、論文草稿と自ら行ったという細胞移植手術の動画などが電子メールで送られてきた。森口氏はこの論文を科学誌「ネイチャー・プロトコルズ」に投稿したと説明した。

 取材は4日午後に約6時間、東大医学部付属病院の会議室で行われた。森口氏は「2月に重症の心不全患者(34)にiPS細胞から作った細胞を移植し、うまくいった」と概要を説明した。記者の質問に対しても森口氏は、関連論文などを紹介しながら説明し、示された写真やデータなどの資料にも特に疑わしい点はなかった。投稿したとされるネイチャー・プロトコルズ誌が、専門家の審査を経て掲載が許可される有力専門誌だったことも、本紙が業績を信頼した理由だった。(引用終)

 

と説明している。さらにいえば、過去に研究業績が「マスメディア各紙で実際に報道されたことがある」という”実績”も、記者にとって信憑性を増す根拠だったことも疑いない。

  ここで気にとめておくべきなのは、森口氏は事件の容疑者ではなく、貴重な研究業績を好意で教えてくれる研究者である。もし故意に嘘をついて記事を紙面に掲載させれば、偽計業務妨害罪が成立する可能性すら高い。そういう点で、メディア側が、先方に対し「性善説」で臨むのは自然の成り行きなのだ。

 これはアカデミアに対する尊敬の裏返しである。ノーベル賞受賞前であっても、山中伸弥教授に「ではまずあなた本当に医者なんですか。免許証見せてください、博士ですね。学位記はありますか」から取材を始める、そんな失礼な記者はいないはずだ。

  ここで一つの反省があり得るとすれば、iPSの研究がそんなに進んでいるというのはおかしい、という「学界の常識」に照らしてみる、ことがあり得たのではないか、ということだろう。

 しかしそれは働かなかった。代わりに働いたのは、競争意識だ。これは憶測に過ぎないけれども「ネイチャープロトコルズの査読論文に設定される事前解禁に引っかかる前に記事を出してしまえ」とか、そういった特ダネ意識(あるいはすでに他紙にもアクセスしていることを森口氏がほのめかしており、「負けるのは避けたい」という意識が働いた可能性もある)が強く働いて、かような結果に至った可能性も憶測ではあるがあり得る。

 

 「追っかけた」側の共同通信はどうか。事前のアプローチはなかったようだ。とすれば、読売新聞にあれだけ大きい記事が出ていれば、事実確認に走るのは自然だ。しかも条件の悪いことに、日本時間の未明から早朝で、クロスチェックすべき別の研究者に接触することも困難な状況だ。

 そんな中でニューヨークにいる当人の所在が分かり、読売新聞に書かれていることと同様の説明が得られた。まず「信頼しうる(はずの)読売新聞が大きく報じて」おり、「少なくとも”しかるべき立場”の本人が『こういう研究をした、それを発表する予定がある』と言っていることは事実なのであるから、その事実を報じてもいいのではないか」という意識が働いた可能性はあるだろう。(実際にはさらに、論文の共著者などにも接触している。以下検証記事から引用)

 

 学会が開かれているのは米国で最も権威ある学術研究発表の場の一つとされるロックフェラー大と分かり、記者が急行。会場で森口氏から直接取材した。森口氏は治療の内容や意義を熱心に話し、学会で研究内容を壁などに掲示して説明する「ポスター発表」の概要を記した文書を記者は学会の広報担当者から入手した。

 日本での取材では、森口氏の過去の論文の共同研究者で大学の恩師という大学教授から、読売新聞の報道内容を確認する発言も得た。この時点で森口氏の説明には信ぴょう性があると判断し、午前9時半、夕刊用に記事を配信した。(引用終)

 

 一刻も早く「追う」ことが求められる中で、経歴の矛盾点をいちいち検証するということに、充分な労力を注げなかったというのは想像に難くない。「事実確認が”ほぼ”できている中で、若干の疑義を理由に1面トップを追わない」というのも、これも競争原理の中では極めて難しい判断となる。

 検証記事には「当初のハーバード大などへの取材で、本人の言い分と矛盾する点が出ているにもかかわらず、その結果を生かせなかった」とも記載されているが、電話取材だけでは漢字で名前を確認することもできないし、あらゆるプロファイルデータを完全に確認するとすれば海外では相当な時間が要るのが常。個人情報保護の絡みもあって、英語が相当に出来たとしても実際にはかなり難しいことである。

 

 では、回避策があるだろうか。考えられるのは

  1. 持ち込みネタは扱わないと決める(しかし実際に成果が上がっていたのならメディアとしての自殺でもある)
  2. しかるべき査読がついた雑誌への論文発表まで報じないと決める(発表の垂れ流しは都度にマスコミ批判の俎上に登るところ)
  3. 専門的なスタッフを育成する(しかしこれだけ研究がたこつぼ化している中で、研究内容の評価、チェックまでできるスタッフが何人必要になるか。また世間の関心が通常高いとはいえない科学ニュース強化に対し、一企業がどれほどの投資ができるか)
  4. コンサルタント的な研究者を確保する(同上の問題。また未明にたたき起こされるような記者とリアルタイムに行動を共にしてくれる現役研究者などいるか?)
  5. 現場がとにかくがんばる

 といったところだろうか。

 

 しかし、より根源的な問題もある。

 紙数も限られ、読者層も広すぎる(ほとんどの読者・視聴者は科学研究にまったく関心がないか、関心があっても背景知識が極めて限られている)マスメディアで、専門的な研究をデータ付きでリアルタイムに扱うことがほんとうに可能なのか、ということ。おそらくそれは無理なのだ。

 仮に可能な部分があったとしても、それは広い科学技術全体のほんの一部の「わかりやすい対象(動物、人体、医療)を追う」研究に過ぎない。しかも、その中で研究成果やデータそのものは、そういう記事の中では「こんな面白い題材を扱っている人がいます」「こんな研究がこの学問で流行っています」という紹介の中での添え物にしかなり得ない。

 しかしそれでよいのだと思う。いまや科学者は、となりの研究分野ですら全くの素人、という状況になっている。まったく知らされないよりは、そんな展開であっても報じられる価値はあるだろう。その上で調べたい人は専門的に調べればよいことだ。

 

 今回の「虚報」は、ノーベル賞受賞という社会的な関心を背景に、破格の大きさで扱われた。

 逆にNatureに掲載されたとしても、そういう意味で「ノーベル賞でも取らない限りマスメディアの報道に耐えられない」研究は無数にある。研究そのものの価値とはまったく関係ないことは十分に理解しているし、さらにその研究者にも畏敬の念を払う。

 一方で、「マスメディアで報じられない」研究があるのは、やはりやむを得ないことなのではないか、とも感じる。お客さんが食べたくないと思っているニュースを無理に食べさせることは、やはりできないのだから。

 これは「マスメディアに報じてほしかった」目立ちたがりの研究者の転落のニュースに接し、末端の一記者が感じたことである。