読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

選良の耐えられない軽さのまとめ

政治・経済・国際

 ツィッターで突然難しい話をし始めたので何かと思った方も多いと思うけれど(字数制限が厳しいツイッターというのは、こういう政治の議論をまじめにやるには不適当)、とつぜんフォロワーが増えたりもしたので、とりあえずのまとめを。

 まず大前提だが、仙石官房長官が「自衛隊暴力装置」と発言した。これはあまりほめられたことではない。なぜなら一般の市民にとって「暴力」という言葉のイメージは、やはり悪いから。
 一方で、自衛隊シビリアンコントロール(文民統制)をめぐる議論の中で、「国家の暴力独占」というマックス・ウェーバーを代表とする(別にウェーバーだけでなく、「基本」なのだから)考え方を知っておかないと、場の議論が深まりようがない。
 社会科学において「暴力」は、善用も悪用もされうる強制力として意識されている。だから「実力」ではなくて「暴力」。なればこそ国家が管理しなければいけない、民主主義国家でそれはなお徹底されなければいけないから「文民統制」が必要、という議論が生まれる。
 「職業としての政治」を引くのが正しいか。この本は政治を志す人にとってあまりに基本的な書籍。昨日2冊目を買ってきたけれど、岩波文庫で460円。訳が古いので若干読みにくいが、100ページもない。この本に「国家と暴力」についての言及がどれほどなされているか。「暴力装置」の有名な出典はレーニンの「国家と革命」らしいけれど、国会でレーニンを引用してはいけないという規定はないはず。
 仙石氏の発言は不適当ではあるだろうが、それは「テレビ中継されている国会という場で、社会科学の専門的タームを使いものを語るのは要らぬ誤解を招く」ということであって、自民党の議員さんが言ったように「国民のためにがんばってくれている自衛隊の皆さんに失礼だ」という論理展開はありえないし、危険でもある。
 自衛隊法には「治安出動」の規定もあるわけで、日本の歴史には不幸なクーデター未遂事件もあった。自衛隊のみなさんが自らの権限で行使しうる「暴力」に対し自覚的でなければいけない、と語ることの何がおかしいのか、ということだ。
 もう1つ指摘したい。国会はウェーバー研究者の学会ではなく、単に政治の実務家が最善の政策を模索する討論会にすぎない。専門的にみて仙石氏のウェーバー解釈が間違っているとか、原典に当たっていないとか、「暴力」訳語の適切性とか、そういった議論展開に意味があることとは思えない。もっとも入手可能で汎用的な岩波文庫は必ずしも現代の「正訳」ではないかもしれないが、一般に膾炙した「定訳」ではある。
 一般的に知られている「政治と暴力」の関係について、国会で自衛隊文民統制の必要性を語る際には、もっとも手にしやすい文庫版の日本語訳で十分であって、それ以上の「注意義務」を要求すれば、国会ではいっさいの生きた議論ができなくなる。
 もっといえば、アダム・スミスケインズの原典を読んでない経済アナリストはごまんと居るわけで、まさに「教科書的解釈」でも十分だと考えるのだが…。
 最後に、「失礼だ」という論理立てが「危険だ」という点について。日本は戦前に「天皇を機関車に例えるとは不敬」という現代の目からは明らかな筋違いの、言いがかりともいえる議論によって、多くの優れた社会科学者が職を追われた歴史がある。
 政治討論の場における発言は、それが討論というゲームの中で存在している間は限りなく自由であるべきであって、「失礼だ」という理由で問責を主張するという態度は、選良たる国会の議員として歴史に謙虚な態度とはいえないだろう。