雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

大野病院の優しい日本人

 大野病院での出産事故をめぐる刑事裁判で産科医に無罪判決が出た。事件の内容は20日のニュースで大々的に報じられているのでここでは書かないことにする。
 仕事がら、かつて大野病院を運営する(県の)事故報告書を読む機会があり、関連で取材もした。
 大まかに言うと、刑事事件として立件される前、当初事故の問題点として認識・指摘されたのは以下のようなことだった。

  • 医師の出身医局である県立医大から「応援の産科医を派遣しようか」といわれたのに、医師が断った。
  • 看護師が「応援を呼ぶか、大野病院ではなくほかの(産科医の態勢が充実しているが、遠い)病院で手術したほうがいい」と進言したが、医師が断った。
  • 難産が予想されたのに、発注する血液量が不足していた。大量出血段階になり緊急発注したが、運ぶのに時間がかかり間に合わなかった。

 さらに、裁判段階でのもうひとつ重大な論点は

  • 法律上はっきり記されていない「異常死」=警察に届け出る必要がある=の定義は何か。

だった。(死を警察に届け出なかったことが逮捕事由にあたる「証拠隠滅」とみなされた面がある)
 法学的には刑事裁判には真実発見機能があるというのだが、現実の報道ベースではクーパー(手術用はさみ)を使用した術式の是非だけがクローズアップされる結果になった。

 当人に取材していないからこれは感想に過ぎないが、 医師は「1人の優しい日本人」だったのではないかと思う。
 大野病院がある地域は決して僻地ではない(原発があるので予算も潤沢)し、設備も整っている新しい病院だが、医大は車で2時間はかかる。妊婦を態勢の整った別の病院にとなれば、最も近いいわき市の病院でも、やはり車で1時間以上はかかる。産科医は不足しており、忙しい。被告は経験10年余りの医師だから、「未熟な若手」ではなく、中堅に差しかかってきている。妊婦は前回も大野病院で出産しており、初産でもない。
応援を頼むのは「医局に悪い」、ほかの病院に回すのも(その病院の医師も同じ医大から派遣された”同僚”だろう)「忙しい他病院の”同僚”に悪い」という気持ちが、「自分1人でやれる」という気持ち(これは過信なのか?)に転化しても不思議はない。これは産科医の「ギルドの一員」としての「優しさ」だ。
 もちろん輸血も決して潤沢ではない。いったん注文すれば返品はきかない。ぎりぎりの量を発注したのも、病院を経営する県や日赤に対する「優しさ」である。
 妊婦や家族の心境はどうか。まず、「出産は病気ではない」という両者の決定的な意識の溝は埋めがたい。
 もちろん出産は危険な行為だから100%の安全はありえない。しかし初産ではない。周囲は「2人目だから安心ね」と無責任なことを言ったかもしれない。帝王切開は手術そのものだが、妊婦一般にそこまでの感覚があるだろうか。臨月に車で1時間以上もかけて遠い見知らぬ病院に行くよりは、検診も受けた同じ病院で、同じ「優しい」医師にやってもらうのが安心と考えるのは当然だ。
 しかも大野病院は新しくてきれいな病院だし、県立でもある。素人には内部の実態は分からないが、見た目の「安心感」は高かったはずだ。子宮を摘出すればQOLは下がる。3人目をどうするかなんて、産んで見なければわからないんじゃないか。子宮摘出なんて避けたいのは当たり前のこと。別に妊婦は「モンスター」ではない。
 妊婦はきっと「何とかなりませんか」というだろう。そして、「優しい」医師が「できるだけ子宮を残す方向で努力しましょう」と答える。理想的な医療だ。きっとどんな妊婦(夫も含む)も「お願いします」というはずだ。ここでも医師は患者に対して「優しさ」をみせた。
 しかし、一方で医師はこの時点で「事前に子宮摘出がありえること」を説明し、家族の了承を得ている。この時点で、すでに医師はある程度のリスクを予見していたが、「優しさ」を取った。家族は医師の優しさをそのまま信じる。ここで「意識の溝」は決定的になった。

 結果として、「忙しいだろう同僚のため」、「妊婦のため」にとった「優しさ」は、すべて裏目に出た。
 応援の産科医を呼ばなかったために手術時の対応は少しずつ遅れ、準備した血液は足りず、緊急の追加注文は間に合わなかった。まれな症例であることが分かったが、術前の言葉に縛られ子宮を温存する努力を最後までしたことが、死の直接の原因となる大量出血を招いた。

 さらに、それぞれの「優しさ」を総合して「過失」と認定した警察による逮捕。
 警察は、「動員する」行為そのものが存在意義の組織といってもよい。サミットでの要人警備などを見れば明らかなように、動員費用はすべて公費で、人的資源も潤沢だ。彼らにとって応援は「呼べば確実に来る」ものだ。
 逆に、「呼ぶべき応援を呼ばない」こと、「また十分な態勢で臨まない」ことは重大な判断ミスとされるし、明石市の花火大会警備のように、ことによれば組織の責任者が刑事訴追の対象になる。こここにも「意識の溝」がある。
 遺族との「意識の溝」も埋まらなかった。子宮全摘の了承を取ったことで、家族は逆に「子宮全摘さえすれば、安全に出産できる」との認識を持った。医師から「子宮を全摘しましたが死亡しました」という説明を受けたなら、「何か医療ミスがあった」と考えるのは仕方のないことだろう。まして「出産は病気ではない」から、なおさらだ。「裏切られた」感覚さえあったかもしれない。

 どこかの報道かは忘れたが、遺族は民事提訴も検討したという。医師の産科離れ、小児科、外科などもそうだというが、理由が「訴訟リスクの高さ」だという。
 あまりにも有名になった「白い巨塔」の小説を読めば明らかだが、医療過誤の訴訟の勝率が上がってきたのはそれほど昔の話ではない。まだ駆け出しだったころ、医療訴訟は「勝てない訴訟」の代名詞だったし、事案の専門性もあって(鑑定人のなり手がいない)取り扱う弁護士も極めて少なかった。ここ数年、判例の変化で「勝率が上がった」のは紛れもない事実だし、遺失利益などで賠償額も高額に上るから、弁護報酬も多額になる。医療訴訟は「儲かる」ようになり、手がける弁護士もかなり増えてきた(それでも、きちんと医療訴訟を維持できる弁護士はそれほど多くはない)。
 しかし民事提訴では「真実を発見」することは基本的に難しい。双方の主張は「基本的にかみ合わないまま」なのが民事。しかも医療訴訟の多くは、裁判所での和解で終わるのが実態だ。和解しなければお金はもらえないが、和解すれば事実の究明はそこで終わる。ゆえに民事で負けたから「ヤブ医者」だとは言い切れないし、勝ったから「ミスはなかった」とも言い切れない。民事訴訟というのは、そもそもそういうものだ。
 社会はますます専門化し、「ギルド化」も進んでいる。ギルドは「ギルドの論理」を主張するが、それは正しいこともあるが、間違っていることもある。検察側主張が正しいとは限らないのはもちろんだが、「産科医団体の主張」がすべて正しいとも限らない。裁判で、弁護側主張のみに依拠して論理構成し、「これが真実」だと主張するのは危険すぎる。
  「隣の業界のことは皆目分からない」のが基本になっている中で、どうしたら真実の発見ができるのか。自分たちの仕事にも突きつけられている課題なのだけれど。