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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

頭が悪いので

呟き

 相変わらずパソコンの前でせこせこメディアチェックをして翻訳を書く日々が続いております。まあ外は暑いし、快適と言えば快適なのだけれども…。
 ときに、マルチタスクとはありがたいもので、仕事をしながらブログも見られる。「没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たち」というエントリで小飼弾氏との論争があるそうだ。筆者は(恐らく現役の)京大生。
 小生頭が悪いので、文章読んでも何が言いたいのか分からなかったのだが、要は「現在の制度で『選ばれたエリート』である京大生が就職できないのは教育=社会システムに問題がある」という、社会学的な話のようだ。引用書肆には読んだことのある本が並んでいた。
 まあ、「ルポ」と言ってるが、実例が一切ないのでこれはルポとはいえないだろ、とかそういう形式論は別にして、個人的には日本の教育というのは(底辺校問題は脇に置く)、現状でも結構「きちんとしている」部類じゃないかと思う。幸か不幸か超一流大学にやすやすと合格するような人々が友人や知り合いに多いけれども、やはり彼らは大量の情報を分類し、処理する能力というのが極めて高いので、いつも感心させられている。
 ただ日本語で教育しているので(ガラパゴスだ!)、なかなか世界とコミュニケートするのが難しいという問題はあるだろう。しかし、相互互換性がある欧州諸語ではない、言ってしまえば日本語というマイナー言語で、これだけの教育水準を達成している国は世界に例がない。

 この筆者さんの指摘にまず抜け落ちているような気がするのは、「エリート」選抜過程の問題。つまり入試がペーパーテスト一発勝負しかないということじゃないだろうか。選抜の厳密さを担保するのにペーパーテストは最適だと思う(だから、AO入試は「不公平」という議論が主張され続ける)けれども、だとしたら年1回である必要はないだろうなぁ。
 人間だから、入試の日に体調が悪いこともあるだろう。さらにいえば入学者のレベル担保と年齢は全く関係ないはずで、社会が「現役合格」をありがたがる(さらには卒業時の就職まで影響を与える)ことはほとんど意味がない(=信仰でしかない)ように思える。あれは官庁の年次主義(東大法学部の首席が大蔵省に入るみたいな)、さらにいえば明治の世のプロイセン陸軍の慣行に端を発してるんだろうと思うのだが、人生80年時代に合っていないのは明らかだ。*1 

 さらに言えば、人間は環境に順応する生き物。筆者さんが言う「選抜されたエリート」というのは、そういうペーパーテストという「所与の条件」に最も良い適応を示した人々だということにすぎない。まあ世の大半の仕事というのは紙(文書)ベースなので、紙の処理能力が高い人というのは、応用範囲が広いのは本当のことなんです。だからそれに意味がないわけではない。
 しかし、就職するときにはまた別な「所与の条件」があって、それへの適応を示す必要もあるってことに過ぎないんじゃないだろうか。企業での生活には文書の処理能力だけじゃダメだ、っていう当たり前の事実です。
 まあ、大学入試と違っって就職活動には「これ(参考書、教科書)を網羅しておけば大丈夫」みたいな規定がないから難しいんだろうけれど、それを言い出したら生まれた年によって大学入試の難易度は明らかに違うし、「四択問題の天才」は記述式答案では実力を出し切れない。さらに言えば欧州大陸の大学が好んでやる「口頭試問」になれば。状況は全く変わる。もっと言ってしまえば、適応する努力は努力として、そもそも人生「運」の要素を捨象しては生きていけないんだと思う。

 小生も、何の因果があって、この国でこの仕事をすることになっているのか、高校を卒業してから計算違いばっかりで、いまだに首を傾げることばかりなのだが、これはこれで悪くはないのかも、という気もしたりする。何かとりとめなくなって、頭の悪さを暴露し始めてしまったのでこの辺で。
*2

*1:まあ明らかだからといって改革されるわけでないのが世間の常ですけれども。

*2:はてなブックマークのシステムがさっぱり分からないのですが、ブログを書いて人気が出れば勝手に登録されるという理解でよいのでしょうか?