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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

象徴的なの、か。(秋葉原事件)

 まず、今回の事件で亡くなられた方に深いお悔やみを申し上げなければいけないと思います。
 
 マイミクさんがブログ「人間までカンバン方式」というエントリを紹介していたので読んでみた。これを読んで「トヨタ(の関連会社)ひどいねぇー」と思うのかどうか、記者だけど、正直言ってよく分からない。
 そもそも、小生は、事件というのは本来きわめて「属人的」なものだと考えている。「社会的背景」というが、極限状態でも立派な行動をする人はいるし、どんなに満ち足りていても犯罪に走る人間はいる。それは”大前提”だ。
 大きな事件が起こると動機を推し量るのはマスコミ(ブロガーも?)の常だけれど、それはマスコミという社会装置が市民に「納得感」を与える儀式としてではないかと思うことが最近よくある。動機というのは、市民が「自分たちはそんな事件は起こさないよね。幸せでよかったね」という納得感(相手のことが分かったふり)を与えるためのトリックなんじゃないか。「分かった=理解」したという感覚は、第三者が事件を過去帳入りさせることを容易にするからだ。
 大きな事件の裁判や精神鑑定の取材も何度もしたことがある。検察側冒頭陳述や、被告人陳述で被告自らが動機を語ることもある。それでもなお個人的には、人の心の中というのは、犯罪事実の確認と処罰を仕事とする警察や検察には分からない(本当に分かってしまったら”糾弾”することができなくなる)ものだと思うし、さらに言えば、本来他人は知り得ない(自ら説明することもできない)ものだと思っている。自らが法廷で語った動機すら、場合によっては「嘘」になることがある、そのくらい人の心を分かるのは難しい。

 その上で書くとすれば、いまの若者は「自動車絶望工場」とか読まないのだろうか。チャップリンの「モダン・タイムス」でもよいけれども。大企業たたきに結びつけるのはたやすいが、そもそもそういう問題を「カイゼン」するのは一私企業の責任ではなく、規制する法律を作る政治の責任だ。「若者は政治に無関心」というけれど、それがこういう事件を引き起こしたのなら、それも一つの「罪」である。

自動車絶望工場 (講談社文庫)

自動車絶望工場 (講談社文庫)


 今回の通り魔事件の容疑者は青森出身だという。地方からの労働力供給ということで考えれば、30年以上前の「集団就職」が思い起こされる。「集団就職の時代」という社会学の本があるけれども、この本によれば、正社員であったはずの集団就職先の労働条件の多くは劣悪であり、大半が5年以内に転職していたという。必ずしも昔は「雇用が流動化していなかった」わけではない。古い映画、たとえば「キューポラのある街」(サユリストなのだ)でも「東京物語」でもいい。DVDレンタルで借りて見ればすぐ分かることだが、いまは清潔な住宅街になっている川口市あたりでも、ついこの間まで驚くべき貧困や労働問題があった。もうみんな忘れてしまっているけれど…。
集団就職の時代―高度成長のにない手たち (AOKI LIBRARY―日本の歴史)

集団就職の時代―高度成長のにない手たち (AOKI LIBRARY―日本の歴史)


 事件の背景がもしあるとすれば、それは単純な貧困問題ではない。むしろ、うっとおしいほど濃密な「世間」に縛られているはずだった日本社会の中にもう一つの社会、「砂のような社会」が生まれつつあるということなんだろう。
 ご承知のように、もともと山谷や釜ケ崎(あいりん地区)はそういう世界だったわけだけれども、その底辺がもう少し拡大して、「普通の暮らしをしている」と思っている人にもその底が見えるようになってきた、という言い方が適切かもしれない。報道されている内容では、彼は高校、自動車専門の短大を卒業している。経済状況は分からないけれども、両親も健在だ。貧しいか貧しくないかは別にして、これまでの社会であれば、どこかで「世間の網」に引っかかっていたのじゃないかと思う。
 昭和の大恐慌で失業者があふれたときに、社会主義思想の代替物として帰農や親類縁者による扶助が叫ばれた。地方から上京して集団就職した人たちが転職したりするに際しても、それを支えたのは、同郷の紐帯であったり、郷里の中学の先輩後輩であったり、そういったいわゆる「地縁」や「コネ」のようなものだったのではないだろうか。 
 もちろん、そういう紐帯はこれまで前近代的な「うっとうしい」要素として否定的にとらえられてきた。それを断ち切ることこそ「近代社会」だと考えられてきたわけだけれど、本来その代わりとなるべき社会装置、たとえば政党であったり社会運動(教会なども含む)であったり、労働組合であったり、そういうものを十分に構築できなかった(構築させなかった)のが日本社会の現状だ。そこで生まれた孤独が、自殺者の増加であり、今回のような事件となって現れてきている。(なんかアーサー・ミラーの「あるセールスマンの死」を思い出してしまった)

 「日本には中間の緩衝装置(たとえば失業保険の給付期間や支給条件とか)が不十分」だから「簡単に生活保護レベルにまで落ちてしまう」というのは、別に派遣全盛社会になる前からいわれていたこと。失業率が低かったから、これまで、その奈落が「普通の人」には見えにくかったに過ぎない。
 日本は、つい2年前まで遅れてきたサッチャリズム万歳、「構造改革」を叫んでいた国、生活保護たたきをやっていた国である。政治への無関心といい、小泉・竹中改革万歳のムードといい、そのときから「新自由主義を導入すれば犯罪が増加する」なんて分かり切っていたこと(ブログでも何度も書いた)なのに、いまさら手のひら返して「派遣を救え」なんて、個人的にはいまさら何を言ってるんだ、片腹痛いぞと言いたいんだけれども、それは不謹慎だろうか。