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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

秋葉原通り魔事件(メモ)

メディア

 今日は新聞の休刊日だったので、明日の夕刊まで仕事は続くのだと思うけれども、まずは大変な事件になってしまったと思う。CNNもスチル写真だったけどずっと放映していた。
 携帯で写真を撮っている野次馬(傍観者)が多かったといって、批判する人もいるようだけれども、人間は全く想定外のことが発生すると、フリーズ(凍り付く)してしまうものである。阪神大震災震源地に近いところで経験した先輩は、揺れが収まったときに「何をしていいか分からなかった」そうだ。記者の仕事といのは不測の事態に「慣れる」ということから始まるように思う。不測の事態が起こっても、「間違っていない」ことをまずやる、それができるようになるまでに何年かの経験が必要だし、何年かの経験を積んだ人が集まっても、よく失敗する。自分の限られた経験から言えば、むしろ寝ぼけているくらいの方が、その後の動きはスムーズなように思う。
 消防や防災関係者、救急の人は「非日常が日常」だとは言っても、いきなりこんなことが起こって最善の対応を取れ、という方が難しい。現場は往々にして情報過疎になる。大体テロなのか通り魔なのか災害なのか、居合わせても、居合わせているからこそ判然としないなんてことの方が多い。もし今回現場に居合わせて、119番するだけであったとしても、AEDを運んだだけであったとしても、なにがしかの救助作業に少しでも貢献できた人は、それは大変誇らしいことだと思う。「本物の現場で何かができる」というのは、そのくらい難しいことだ。
 今回は秋葉原だったので、人はたくさんいた。人はいないよりいた方がいいのだけれど、あまりに人が多すぎると、互いの「譲り合い」とか「誰かがやるだろう」意識が芽生えてきて、かえってベストから遠ざかる。倒れている人の脇に何人かいたら、「自分がやることはないんじゃないか」と思うのはむしろ自然なこと。することがなくなってしまったら写真交換したくなるのも自然なこと。ベストに近づくには誰かが「仕切る」必要があるわけだけれど、ああいう街頭というのは、制服を着ている消防や警察の人がいなければ、誰かに「仕切らせる」というのにもっとも不適切な場所の一つ(だって誰も相互に知らないのだから)なのだ。
 しかも、仕切りは「正しい仕切り」でなければいけなくて、単に強権的な「仕切り屋」が現れるとかえってたちが悪い。間違った方に動員されたときの災厄の大きさは、1人が失敗したときよりもはるかに大きい。

 幸か不幸か、東京も大阪も13年前に「全く予期せぬ災厄」を経験した。いうまでもなく地下鉄サリン事件阪神大震災だが、日本人は「予期せぬ」ということが起こるということを身をもって体験した。大きすぎる犠牲だけれど、それはパラダイムとしてすごく大きな「進歩」であって、それは四川大地震をみてもよく分かる。今回の事件にもそれは生かされている、生かされていて欲しいと思うのだけれど。