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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

「カルラのリスト」試写会

 生まれて初めて試写会というものに行ってきた。「カルラのリスト」。主人公、カルラ・デル・ポンテ:Carla Del Ponte(女性)のドキュメンタリー。彼女は 旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷法廷(ICTY)のスイス人の国連検察官。*1
 この映画は法律家のドキュメンタリーではあるが、「法律の映画」ではない。これは「政治の映画」だ。国際刑事法廷がいかに「政治」であるか、彼女を通して淡々と描かれている。
 旧ユーゴの内戦は、「文明の中での戦争」だった。ユーゴスラビアは日本から遠い国だが、世界的基準で見て決して「遅れた、貧しい」国ではなかった。識字率は高く、メディアは大衆に普及していた。だからこそ悲劇が起こったのかもしれないわけなのだが…。しかも、世界最高の文明度を誇ると自負している西欧圏からユーゴスラビアは指呼の間にある。ウィーンからベオグラードまでは列車でも数時間の距離だ。

 国連検察官には警察権がない。「当事国の協力」があって、初めて戦争指導者の身柄を確保することができる。しかし、当事者の国々、あるいは国際社会の各国は自国の利害、国内世論との絡みもあり、必ずしもかつての民族主義の悲劇を精算することに好意的ではない。
 しかし一方で、戦争犯罪の被害者は「確実に現存」している。スレブレニツァの「虐殺」、コソボ、クライナ…。非戦闘員の夫や息子を失った彼女らは「国際戦犯法廷」に望みをつなぐ。
 しかし法廷が指導者を捕捉できるとは限らず、時間は有限だ。それに、数人の戦争指導者が仮に捕捉され裁判を受けたとしても、現場で夫を殺した人間の誰なのか。彼らは行方は知れず。あるいは一市民として平穏な生活を送っているかも知れない…。すべての重圧が彼女にのしかかる。誰かがやらなければならない。やりがいはあるかも知れないけれど、全員を満足させることが決してできない仕事でもある。

 ハーグの国際刑事法廷は、「国際社会が個人を裁く」という点で画期的である。
 がそれ故に、かつての東京裁判ニュルンベルク裁判、アイヒマン裁判を想起させる。*2
 つまり、裁判という司法手続きでありながら「政治」を抜き去ることができないことが宿命づけられている。しかし、この問題についてはそれぞれの国家では何も解決することができない、これまでの歴史が証明している。当事者には歴史に対する責任がある。少なくとも真実は明らかにされなければならない。何を考え、何が起こり、何が起こっていなかったのか。国際法廷の訴追から逃げ回っている戦争指導者は、その意味で「人類に対する罪」を犯している。

 付記すれば、このようなマイナーな映画を邦訳し日本で公開したアップリンクの努力には頭が下がる。試写会には多くの学生など、映画業界以外の人々の姿もあったが、努力に応えるため、できればお金を払って見に行くべき映画だったかもしれないと思った。
 映画「カルラのリスト」は11月10日から30日まで東京都写真美術館で上映される。*3

*1:ルガーノ出身のイタリア系スイス人。映画中にもクロアチア首相とイタリア語で話す場面が出てくる。

*2:東京裁判は「政治的な裁判」であるが、手続きの正当性にかかわらず、A級戦犯に問われた彼らが無問責であるはずはない。なぜなら、彼らは「一般の市民」ではないからだ。彼らは国家の指導者であり「負ける可能性が極めて高い戦争」を回避せず、国家を滅亡の縁に追いやるまで戦争を止めなかった。多数の国民に責任を負うべき立場にあり、しかも民主主義が停止した状況下で、その地位にあることを望んでもいた。彼らがなした政治選択について、国民に対して負うべき重大な政治責任があるはずだ。

*3:この映画の公開にからんで、ミャンマーで反政府デモを取材中射殺された映像ジャーナリスト長井健司さんをめぐるシンポジウムが先日開かれ、その席でAPF通信の山路徹社長は「長井さん事件を国際刑事法廷(ICC)に提訴すべき」と述べている。