雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

向都離村

 この春から東京で働くことになり、「地方在住」の看板を下ろすことになった。
 活字メディアの記者職であれば、一部の雑誌なんかを除いて基本的に地方に住むことを避けることはできない。自分も例外ではなく、何年かの地方暮らしを経験した。

 向都離村という言葉がある。かつて、日本の地方は、いやあえて田舎と言おう、田舎は貧しかった。集団就職で若者の口減らしをすることで、農村が食いつないでいた時代からまだ半世紀も経っていない。田舎を豊かにすることが、自民党の党是であったのは、田中角栄が権勢を誇ったたかだか30年前の話である。
 そして今、小泉構造改革がなされた時代と、インターネットの急速な普及は同時だった。当初、インターネットの普及は中央と地方の情報環境の格差を埋め、地方への産業進出、あるいは地方での起業が加速すると考えられたこともあった。

 しかし、そうはならなかった。むしろ都会、というより東京と地方の間の格差はどんどん開いているというのが実感だ。
 この状況は米国ともまた違う。誰もが知っていることだが、マイクロソフトの本社はシアトルという一地方都市にあり、グーグルはサンフランシスコの郊外にある。テレビ局などマスメディアがニューヨークに集中しているのとは対照的だ。
 一方の日本。ネットの旗手、ヤフーの本社も、ライブドアの本社も楽天も、はたまたこのブログがある「はてな」も、みーんな東京、特に前3つの本社は都心の超高層ビルだ。大阪から東京への本社移転もどんどん進んでいる。
 家賃も高く、コストも高く、住みにくいはずの東京にビルがどんどん建って産業集積が進む一方で、一方の地方は(名古屋を除いて)ますます寂れ、高齢化も進み、結果として地域間格差はどんどん開いている。情報格差は埋まったはずなのに、いったいこの「格差」はなんなのか。

 つまり、格差社会というが、格差の実態はかなり重層的なものなんだろう。
 まず、世代間格差。これはわかりやすい。わかりやすいからみんなが取り上げ、「再チャレンジ」じゃないけれど、今や政治的なアピール材料にも使われるようになった。
 「団塊の世代」と、「氷河期世代」に代表される若者の対立図式はすでにネット掲示板では定式化されているし、それと「極端な少子化」のリンクも盛んになってきた。個人的には所得水準が低下してきて貧困が発生すると子だくさんになる、という途上国型の様式もあり得るだろうと思うのだが、日本ではそうはなっていないようだ。まあ、それが当てはまったのは「キューポラのある街」で吉永小百合がデビューした頃だから、もう40年も昔の話なのだが。
 もう一つはたぶん地域間格差だ。今でも首都圏への人口流入は止まらず、北海道の人口はどんどん減っているし、最低賃金額で見ると、離島という悪条件が伴う沖縄を除いて、もっとも所得水準が低い県は青森、秋田、岩手の北東北3県。
 確かに、集団就職でこの3県から若者が上京してきた40年前、いや女工哀史や昭和恐慌での東北の農村の惨状に青年将校が決起したその昔からは一定の底上げがなされてはいる。しかし本質的に何かが変わったのだろうか。下支えを支えた公共事業も今はどんどん減っている。
 さらに問題なのは、所得が低い地方の中でも「社会の老化(口当たりのいい言葉で言えば”成熟化”」が進んでいる。
 例えば、一昔前は盛んだった農閑期の「出稼ぎ」。しかし「今は大幅に減っている。行くのがめんどくさくなっているんでしょうか」いう。代わりに冬場でも車で行けるパチンコ屋ばかりがこの上なく繁盛し、消費者金融の看板が目に付く地方都市も多い。地方に新設された公設弁護士事務所の仕事のほとんどが自己破産の処理だ。
 若者が減り、進学などで東京に出た若者を呼び戻す魅力もなくした地方。唯一の産業の建設業が店じまいし、公務員しかまともな職がない市町村のいかに多いことか。しかし公務員は決して自ら富を生み出すことはないのだ。
 こうして地方社会はどんどん劣化してゆき、魅力を失った地方経済もますます凋落する。

 これは悪循環だ。どこかで断ち切らなければいけない。しかしどうやって。
 都会の人間が流行の「自助努力、自己責任」と呪文を唱えるのは簡単だ。しかし高齢化も東京より遙かに進んでいる。夕張の例をあえて引かずとも、もはや自力で立ち上がる気力すらかなわない地域が、どんどん増えているのではないだろうか。
 若者を東京に奪われ、知恵もなく、資本もない。産科小児科医療を筆頭に、基本的な社会サービスもままならなくなってきている。青森の最低賃金であれば、あるいは中国の沿海都市部の方がドル換算の待遇が良いかもしれない。もはや東京に出てきて職探しする資力すらない人も、いるに違いない。
 市町村の大合併による効率化はすでに強行されている。夕張のような合併に乗れない落伍地域も、すでに切り捨てられ始めた。夕張は最初のケースだけに日本中から支援の声が上がったが、破綻予備軍は無数にある。2番目以降にはそれも期待できない。
 行政サービスが及びにくいへき地集落から住民を(おそらくは猛烈に”誘導”する形で)移住させることも、行政関係者の間では真剣に検討されていると聞く。どれも否定はしない。が、すべてが守り、後ろ向きの施策に見える。

 最大の問題は、地方に知恵が残っていないことではないか。
 旧帝大の卒業生の大半が東京で働き、地方に戻ってこない現状。米国の大学のように、最高学府が地方都市にあっても良いはずなのだが、そうはなっていない。
 だから起業も進まないし、東京にしか資本が集積せず、過密の弊害も出てきている。せめて、地方の中核都市くらいは自力でやっていける資本と知恵を持たないと、いや持たせるように仕向けないと、日本の国全体が立ちゆかなくなってしまうのではないか。
 そもそも政治、経済のエスタブリッシュメントがみんな東京にいるという現在の状況は、極めて途上国的だ。昔の平安貴族も、国司になっても地方に赴任しなかった例が多いという。それが政権を揺るがし、武士の台頭を招いたと聞く。ローマ帝国の例を引かずとも、辺境統治が行き届かなくなるのは、国の老化と衰退を示すサインでもある。
 経済学者の好きな「経済モデル」のように、「日本は東京だけ。後は他国に譲ります」とすれば良いのかもしれない。が、それは絵空事だ。

 この国をもし本当に愛するのであれば、やはり何とかしなければいけない。東京育ちの自分に、果たして何ができるだろう。
 それは僕の地方暮らしの、一つの総括でもある。