雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

リトビネンコ事件メモ

 同業他社の記者によると、「最近国際ニュース部門はリトビネンコ事件でもちきり」なのだという。あれはやはり事件なのだろうか。
 故リトビネンコ氏に使われたとされる毒物(という言い方が適切かどうか)、ボロニウムについては核物理の元専門家の書いたサイトAquarian's Memorandum・ポロニウムは原発の起爆剤に詳しいので参照されたい。

 私は佐藤優さんのような「インテリジェンス」専門家ではないので、よく分からないが、「ああ独裁国家ロシアだからね」という片付け方にはちょっと違和感を覚えるので、公表された情報を元に、「ごく政治学的に」整理してみたいと思う。
−リトビネンコ氏は元KGBであることを公表、エリツィン時代の政商かつ富豪、ベレゾフスキー(その後プーチン政権に訴追され、ロンドンに亡命中)の庇護を受け、プーチン政権のアキレス腱、チェチェン問題を追うジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ*1=今年、モスクワで射殺=と近しいとされる。
 リトビネンコ氏はポリトコフスカヤ射殺はプーチン政権による政治的暗殺だと主張、イタリア人マリア・スカラメラなる情報源から「リスト」を入手しようとロンドン市内のスシ・バーで会食後倒れ、数日後に死亡。遺体からは猛毒とされるポロニウム210が検出された−

  • 誰の利益か?

 ペレゾフスキーは日本では知られていないが、欧州では有名な亡命者である。ロシア政府は引き渡しを要求しているが、英国政府は頑として応じていない。従って、彼は情報機関(ないし治安当局)の厳重な監視下に置かれている、と考えるのが自然だ。
 しかも、リトビネンコ事件に先立つ10月に、ポリトコフスカヤ記者は射殺、事件はセンセーショナルに取り上げられている。従って、リトビネンコ氏(彼は今や英国市民であるから)にも厳重な監視が付いていた、と考えてよいだろう。
 従って、彼を「毒殺」しようとすれば、たちどころに英国政府の重大な関心を惹起する(事実、今回の事件は英国当局からのメディアリークによって発覚した)のは明らかである。
 そこで問題はポリトコフスカヤとリトビネンコの暗殺はプーチン政権の利益になるか、という点が問題となる。
 が、結論からすれば「《政権にとっては》全く利益にならない」という結論が容易に導き出される。
 現在のプーチン政権は盤石であり、ペレゾフスキー(あるいは一服盛られた疑惑が浮上したガイダル)ら「政敵」の影響力は国内では全くないに等しい状況だ。チェチェン処分も、米国の(黙示的な)支持が得られている間は、政権にとって障害とはならない(当然ながらこれはロシアのチェチェン政策が「正しい」かどうかとは全く別だ)。
 むしろロシアにとって死活的なのは、石油・天然ガス資源を主として売却する西欧諸国との「円満な関係」であって、「たかだか一人の元スパイ」を始末するのに、ロシア政府が全力を挙げるということがあるだろうか。
 しかもポリトコフスカヤ暗殺後のもっとも警戒厳重な時期に、相手国での「犯行を」敢行するとは非常に考えにくい。

  • じゃあ何なのか?

 かといって、ポロニウム210は一般に流通していない物質であり、引用したサイトによれば、何らかの核兵器関連産業にアクセスがある人間しか事実上入手不可能である(そこら辺の商業原発用の軽水炉を扱う原発技術者ではダメだということ。しかし全く流通していないということもないようだ)ということも事実。
 しかも、まがまがしい名前が付いているからなおさらである。しかし、ボロニウム210が「かような猛毒」であるとして、そういった物質は暗殺者にとっても扱いにくい存在であるはずだと考えられる。しかも使用場所はロンドンの街中。まず”暗殺者”自らが誤吸入してしまうなどの事故リスク、さらには周辺に拡散し巻き添えにするリスクが高い(粉末であればなおさらである)。
 ロンドンの街中で人が大量死するような事態となれば、これはテロである。英国との戦争にすらなりかねない。ロシアは権威主義かもしれないが、国家として英国と戦争を決意したことはないはずである。これほどの猛毒は、厳重な防護下でクリーンルームで扱うような物質であって、1スパイの暗殺には不適当である。
 率直に言えば、「政府の指示を受けたプロならもっと扱いやすい物質を使うだろうし、ほかの手段もある」と考えられるのだ。
 では誰なのか。ここからは大胆な推測になるが。プーチン政権は「愛国的」であることを前面に打ち出しているが、それを支持する層は一枚岩とは言い難い存在である。「現職か元職の政府関係者が関与しているが、政府そのものが関与しているわけではない」というあたりではないか。統制されているはずのロシアメディアの報道状況も、おおむね仮説を裏付けているように思える(たとえば政府の直接指示であれば、ロシア国内でかような形の事件報道がなされるとは考えられない)。ロシアは北朝鮮ではない。
 簡単に説明すると、たとえば戦前の日本は「軍国主義だった」というが、軍部にも皇道派と統制派、さらに2・26や5・15事件を引き起こすような跳ね上がり青年将校もいたわけだ。意に沿わない多数の要人が殺害された2・26事件は「軍関係者の意思表示」ではあったが、それはある種の内部の秘密結社的組織の犯行であって、あの事件を政府の意思であった、と捉えている人間は今やいない。

  • 「跳ね上がり者」の可能性

 ロシアの愛国勢力にもさまざまな濃淡があるのが自然であって、「裏切り者のスパイや国を売ったオリガルヒヤ=ペレゾフスキーを”処刑”しても構わない、しかも英国政府に「警告」を与えるのだ」と考える人間=過激派=もいてもおかしくないし、そういう人間が政府内にいる(ないし一定の秘密結社的勢力を持っている)ということもあり得なくはないだろう。
 しかし、それを「プーチン政権、ないし大統領の意思による国家犯罪」である、と断ずるのは早計にすぎよう。
 その論理は、ロシアを「異質のもので、受け入れがたく、排除すべき」という、冷戦期から続くありふれた心裡からスタートしているように思われ、優れて政治イデオロギーな事件の解釈であり、賛同できない。
 すでにソ連は崩壊し、民主主義を「表だって否定」することはあり得ないロシアという国家がすでに現存している。民主主義の解釈はさまざまであってよいが、「ロシアと北朝鮮は明らかに違う」のであるから。

*1:アンナ・ポリトコフスカヤについては[http://www.actiblog.com/hayashi/:title=チェチェン未来日記」]が詳しい。同様の毒殺疑惑事件がロシア国内で発生していることも引用されている