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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

いまどきのいじめ自殺って

 「いじめ自殺なんて聞くの久しぶりだね」と言った人がいる。福岡と北海道でいじめで少年2人が自殺した。学校や教委の不始末が糾弾されている。昔まだ自分が小さかった頃、東京の中野富士見中で「葬式ごっこ」という、教師が関与したいじめで自殺した事件があったけれど、メディアのセンセーショナリズムはそれを思い起こさせる。

 確かに今回教諭も教委も悪い、対応もダメだ。
 しかしあれから20年、今や三十代になった僕は思う。学校でのいじめという問題について、何かを「解決」することは無理なのではないかと。
 だって、いい歳をした大人、そして若者が、「職場への不適応」というよく分からない名目で大量に退職し、職場環境を理由にした自殺だって後を絶たない。大人同士で解決できない問題が、子供に解決できようはずもない。

 教師の介入、教委の指導、文部科学省の指示、どの改善が図られるにせよ「悪くはない」と思う。
 しかし、それが適切だからと言って、いじめという行為と、それに伴う死、という行為が全く消えてなくなる類のものではないと思う。自死を全く考えたことがない人間は世の中にいないだろうし。
 もし大人の介入が強まれば、行為は地下に潜る。熱血教師が指導すれば、すべてが解決できるわけでもない。
 昔からいじめは、家庭間の経済格差、学力、精神状況、進路、すべてがからみ合った複雑な要因で火を噴く。それは学校でも職場でも一緒だろうと思う。 単に職場の問題が顕在化しないのは大人だから(そしてあまりに数が多すぎるから)。そして会社を辞めたり、組合に相談したり、裁判にしたりっていうハードな解決策が思いつきやすいってだけだ。

 今回の事件でいくつか気になることがある。両親は遺影を掲げて弔い合戦のようにテレビの前で振る舞っているように見える。ネタが欲しいから、テレビも持ち上げているのだろう。
 ただし、子供がいじめで自殺するって行動について、両親が当事者でない、ということはあり得ないと思うのだ。

 子供が誰にも相談せず、遺書を残して自ら逝った。原因はいじめだった。
 まず責任を感じるべきなのは、いじめた人間である。
 そしてそういう育て方をした、いじめた子供の親である。ここまでは異存ないだろう。

 そして次は学校、といきたいところだが、ちょっと違うような気がする。
 その次はやはり亡くなった子の両親ではないのだろうか。

 子供がためらいなく相談できる「家庭環境を醸成できなかった」親の責任(ここでの”責任”というワーディングは当然ながら「法的責任」を意味しないし、責任という言葉が適切かどうかも不明だ)を無視できない。
 というかそれを受け止めた上で、どうするかという話なのではないか。あたかも「犯罪被害者」の延長線上に置くようなメディアの扱い方は、少なくとも自分には強い違和感がある。

 今回学校や教委を指弾するご両親の中には、果たしてその後悔やらそんな気持ちは入り交じっているのか。それは自分が人の親でないから分かろうはずもないし、分かったふりをしたいとも思わないのだけれど。。。
 それをどう考えるか、その上での責任追及なのか、自分にはよく見えていない。それがその腑に落ちない気持ちの源泉になっている気もする。

 そしてその次に学校の問題が来るだろう。確かにこんなことが起こってしまえば、あの学校で学ぼうという気にはならない。
しかし、学校は学ぶ環境を提供するところであって、それ以上でも以下でもない。

 今回教諭個人や校長が叩かれている。けれども、本当にそうか。確かに教諭はその場にいた唯一の大人として、校長にはその大人への管理責任はある。
 しかし自分が校長だったとして、何百人もいる子供一人一人の心のひだまで読み取れると自信を持てる人間が何人いるだろう。彼らに人間離れした注意力だけを求めても、ほとんど意味のないことだ。

 もし完全な自信を持って「子供の心が分かる」と、たやすく誓える校長が居たら、その人は本当に嘘つきなのではないか。
 仮にこれから、校長や教委が世間の指弾を受け頭を下げ謝罪し、「これから学校ではいじめを起こしません」と誓ったとしたら、テレビはそれでよしとするかもしれないけれど、それは罪を嘘で上塗りする行為だろうと思うのだが。

 学校は社会装置だから、しょせん実社会を離れて存在することはできない。学校だけが理想社会になっても、結局社会に出て苦労が増えるだけだろうと思う。「二十四の瞳」を例にしても仕方ないのだけれど、理想の学校を描いた小説は、いつも少しもの悲しい。

 最後に提言したい。学校でいじめを防止する唯一最大の方法は、転校と不登校の完全な自由を認めることである。結局のところ、ある社会空間の内部の人間関係を変えるには、人間そのものを入れ替えるのが最善である、というのは万古不易だから。