雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

「真実は神のみぞ知る」

 昔、地検特捜部に逮捕される前日に「職務に関連して金銭を授受したことはない」「収賄は考えられない」「公共工事に介入したこともない」と記者会見で大見得を切って、逮捕されたらすぐにあっさり全面自供、公判でもそのまま有罪を全面的に認めた、なんて政治家をごく身近に知っていると人間不信になるのでしょうか。

 そもそも「真実」ってのは「お天道様は見ているよ」の「お天道様」に類するもので、神ならぬ人間に分かりようはずがない。それはしょせん人の子、地検も裁判所もわからんでしょう。
 日本国内に例をとっても、裁判で「有罪」となって、3回裁判して確定しても、まだ「無罪」を訴えている人が何人もいるんです。
 というわけで、推定無罪とは言っても、じゃあ裁判で有罪になったから「それ(彼が犯罪を犯したこと=悪人であること)が真実」だとは限らない。
 当局が麗々しく発表しても、もちろん「それが真実」だとは限らない。
 虚偽発表の可能性だってある。それはあくまで「事実」にすぎない。
 でも、「事実にすぎない」からといって、それを報じなくていいのでしょうか。
 報じなければ、読者、視聴者には「その発表は『なかったこと』」になる。

 要は「確からしい事実(法律では『真実と認めるに足る相当の事由』というそうですが)」を、即時で出していく職業的責任があるのでしょう。それをジャーナリズムと言い換えてもいい。ジャーナリズムは別に宗教的なものではありません。むしろ職業倫理に近い。

 そういう意味では、この世に「リアルタイムな真実」なんて存在しない、と確証をもって言えるのではないかと思う。これはメディア論ではなくて、むしろ哲学の領域。

 もし、「真実を語る権利」があるとするなら、それは後世の歴史家の専売特許であって、同時代のジャーナリストではないだろう。
 これはジャーナリストの精神とも、メディアの「商業主義けしからん」とも関係がない。
 我々は「真実に近づこうと最善の努力をする」。しかし同時に、世間に対し「即時に情報を提示する」責任も負っているわけで。それは売らんかな、売れない以前の問題でしょう。

 良心に従って真実を報道するには「歴史的評価が定まるまで(数十年後か、数百年後か)、何もかも報じない」っていうのが最善の方法だろうと思うんですが、要はそれでいいんでしょうか、ってことなんです。

 そういうわけで、報道というのは、「永遠に不完全な商品」であり続けるでしょう。それはネットのブログジャーナリズムだろうが(抹消するのも簡単でしょうが)、新聞だろうが同じこと。
 ちなみにテレビのニュースショーは明らかに演出過剰だと思うけど、あれはそもそもテレビ局の「メセナ事業」ですから、たかだか消費者が無料で受け取れる商品の質をあれこれ言ってもしかたないだろうと。