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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

民主主義はたぶん”空気”じゃない

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

 特に梅田さんをたたくつもりも毛頭ないのだが(実際、まだ読んでません)、ここしばらくのネット界の言説に、どうも腑に落ちない思いが続いていた。
 その理由をずっと考えていたのだけれども、もう一冊、"監視国家(Stasiland)”を読んで、何となくその原因が見えたような気がする。問題はネット社会やブログうんぬんではなく、もっと根底的なもの、社会へのとらえ方の違いなのだろうと思う。

監視国家―東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆

監視国家―東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆

 梅田さんに限らず、アルファブロガーな方たちに代表される言説は、ある種アメリカ西海岸的なというか、きわめて楽観的な社会観(世界観)に基づいて発言されているように思う。そこでは、もう日本社会において、政治的民主主義は「空気のように」所与の存在としてあって、問題は経済的豊かさと、自らがそれを得るための「経済的自由」の程度だけなのだという。。。

 「もっと自由を!」は、この文脈では「もっと経済活動の自由を!」であって、たとえば政権交代のような政治的多元主義の実現であるとか(日本は過去60年間、特定の一政党の優位が続いてきた、世界でもまれな国家なのだが)、あるいは政府、官庁に対してより多くの情報を公開するよう求めるとか、そういう方向とは、ネット内に棲む人々の言説はどうもリンクしていない。というより、彼らはそういった活動にむしろ冷淡であり、無関心であり、冷笑的ですらある。

 もっと推し進めて言えば、彼らの依拠する価値観はかつてベトナム戦争を戦った"The Best and The Brightest"な人々のような「近代化論」的なるものに近いのではないだろうか。
 世界全ての人々が経済的な豊かさを求めており、経済的な豊かさを得(さえす)れば、米国的な価値観に収斂するのが”歴史的必然”であって、我々はその導師(宣教師)だ。
 だから我々についてきなさい、というような感じだ。

 これが正しいのかどうか、結局のところ、私はそこに懐疑的だ。
 Googleのような巨大な個人の入力情報の集積は、政治的な均衡点を脅かし、すでに一歩間違えれば危険な領域に入りつつある。
 検索サイトやブログに特定のキーワードの組み合わせを入力したら、当局の警戒リストに載り、複数回検索したら「任意の事情聴取」のため秘密警察が玄関のドアを叩く。にぎやかだったブログが、ある日突然隠微な圧力で、「穏健」なものに代わる。
 便利なネット社会を、そんなシュタージ以上の監視社会に変えることは、現在の技術ならそう難しくはない。インターネットはしょせん、一意に決まるIPの上に乗ったネットワークにすぎず、国内プロバイダに一定の規制をかければ匿名性なんて消すことはいとも簡単だ。

 米国ではすでに政治的自由は空気のようなものかもしれない(9.11後のことを考えると、どうかとも思えるが…)が、私は日本の民主主義や言論の自由はそこまで強力ではないし、むしろ今にも崩れそうな、もろい基盤の上に立っていると思えてならない。
 日本人はブームに弱く、70年前も「バスに乗り遅れるな!」と一斉に駆けだして失敗し、政治的多元主義よりも一元論と付和雷同をこよなく愛する国民性(政治文化)の持ち主のように思えてならない。
 これは私が保守であるとか、革新であるとか、そういうこととは関係がない。過去の歴史には右翼的独裁も、左翼的独裁も、同様に存在したのだから。

 さて、現在の日本の社会は、実は(意外にも?)私自身は「決して悪くない」と思っている。
(筆者注:これはあくまで隣国や、その他の国と比べた相対的な評価だ。絶対的な民主主義の達成度評価とその追求というのは、実は政治学的には相当難しいテーマだ)
 ある程度政治的多元主義は保証されているし、言論の自由は曲がりなりにも保障され、マスメディアと政治や国家の関係は、少しずつ移動しながらもある程度の均衡点を保つようになってきた(むろん、メディアの能力は批判されるようにいぜん不完全なわけだが、先にも述べたようにここでは絶対評価の考えは採らない)。
 暴動や社会不安はなく、先進国共通の病としての若年失業と少子化が深刻なくらいだ。
「少なくともこのレベルの政治的自由度を持った社会が維持されるなら」、ネットの普及で新しい社会ができて、古典的マスメディア記者の私が失業しようと、それは大きな問題にはならないだろうと思う。
 ただし、それを実現するためには、おそらく官公庁、ないしそれに準ずる組織の「完全な情報公開」の保障と、幅広い分野を”網羅する”ボランティアブロガーの分布が不可欠になるだろうと思う。
 現状はどうか、少なくとも日本では、政府の情報公開はわかりにくい上に遅く(もうネットが普及して何年もたつのだから、記者クラブが悪い、っていうのは当局の巧妙な責任回避のように思える)、その中で問題点は巧妙に隠蔽され、むしろ個人情報保護の名目で、情報公開は後退の一途をたどっているのが実情ではないだろうか。
 ブロガーはごく一握りの”ビビッドな”テーマに集中し、やや地味な社会的テーマを継続的に書き続ける人はごく限定的だ。
 もちろん、そのテーマは永遠に地味であり続けるわけではなく、何かの拍子に表舞台へと躍り出るわけなのだが、当然ながらそのときに、にわか仕立てでどうにかなるものばかりではない。

 結局メディアを論じるときに最後に問題なのは、政治的・社会的な自由と安定を維持することと、経済的な自由を追求することの関係だ。
 二つはリンクするのか個別の問題なのか、経済成長、あるいはネット社会の実現に民主主義は十分条件か必要条件かどちらでもないのか。二つの自由の均衡点はあるのか。
 ネットとブログとウェブとメディアの関係を考えるときに、この視点を捨ててメディアビジネスを論じても、何の意味もないように思えるのだが。現状は平和だから経済的な側面が強調されるけれども、本来メディアというものは、すぐれて政治的なもの、いや、むしろ政治そのものなのではないか。

 とにかく、私にとっては「民主主義(政治的多元主義)と言論の自由は”何にもまして”代え難い」。たとえ、経済的豊かさを捨ててでも、これを享受できる社会を維持する価値があると思う。つまり、太った豚になるくらいなら、やせたソクラテスの方がいいのだが。皆さんがどう考えているのか、気になってしかたない。

付記:この文章は梅田さんの本の「読書前書評」としても書かれています。