雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

ライブドア捜索を闇に消してよいのか?

 新年から私事の困りごとと仕事の狭間で揺れ動いていた間にも世の中は動いていて、昨日はまさにライブドア家宅捜索でとどめを刺し、今日は株価急落という綺麗なリアクションが出るという今日このごろな訳ですが。

 私は田舎の記者なので、正直言って東京地検特捜部のことも特捜担当の記者のこともよく分からない。担当を命ぜられてもおそらく任にあらず、ってことになるでしょうが。
 ブログスフィアというものがあるとして、その意見の中で、ガ島通信氏の”捜索前なのに「ライブドアを強制捜査」NHKは誤報と認めず”404 Blog Not Found氏の「風説の流布」なんかに特徴的なものを見いだすとしよう。
 しかしそれはどうだろうか。

 確かに、NHKの報道は誤報、というより虚報であって、それを業界内の人間が免責したところで仕方がないし、「確定判決が出るまで推定無罪」だって、別にブログで指摘されなくても30年前から本に書かれていることである。
 しかし、そのブログスフィアの言説の背景には、「(速報性を犠牲にしても)報道は真実を伝えるべきだ(伝えなくてはならない)」という、ある種の性善説、というか無謬信仰、のようなものが窺われるように思えてならない。

 でも、果たしてそうだろうか。私はプロフィールに書くような窓際記者だけれども、業界でいう「県警は明日逮捕」「当局は〜する方針を固めた」に類する前打ち記事を書いたことが何度かないわけではない。
 しかしそこで(恥を忍んで)断言できるのは、「一度だって、(前打ち記事の通りに)確実にそう(明日逮捕に)なる」と確信したことはないし、実際、逮捕、起訴を経て公判なんかで答え合わせをして、いわゆる「前打ち記事」の事実関係が「一字一句までその通りだったこと」は、「一度たりともない」ということなんである。それだけの”危ない橋”を記者は渡ることを求められる。特ダネにはそれだけの価値がある、とされている。

 さて、東京地検特捜部は「とにかく発表しない組織」として知られている。
実際、ライブドアPJの”元締め”たる小田光康氏の記事にいみじくも記されている通り、「東京地検証券取引等監視委員会公正取引委員会金融庁の4カ所に捜査内容の事実確認を行ったが、回答は得られなかった」という。

注:本来は捜索を受けた堀江社長には捜索令状の提示を求める権利があり、少なくとも令状には法令上捜索容疑の記載が義務づけられているから、堀江社長が注意深ければ、犯罪の容疑の確認は可能なはずだが。堀江氏も狼狽していたのか?

 「当事者側だから当局が答えてくれない(これはたぶん逆)」、または「悪名高き」記者クラブ制度のせいにするかもしれないが、そもそも特捜部でなくとも、「これこれの容疑で家宅捜索した」と捜査機関が報道機関に発表するのは、そもそも極めて例外的なケースだということを書いておきたい。今回も発表していないことは間違いない。

 発表しないばかりでなく、今回先行したNHKであれ、追随した各社であれ、公式非公式を問わず「ライブドアに何人で家宅捜索してるからね、容疑はこれこれ」という特捜部の責任ある立場の人物の確認が「(非公式の耳打ちであれ)明言で取れている可能性」はまずないと言っても差し支えないだろう。

 逆に言えば、これだけ報じられている「証券取引法違反」容疑が本当である”確証”も、恐らくはない(それでも取材した記者の「心証」は取れていると信じたい…せめて自分の属する会社の紙面くらいは正しくあってほしいと願うのだが)のだ。
 あるのは、名誉毀損に耐えうる「真実と信じるに足る相当の事由」程度のものに過ぎない。

 では、これを記事化するべきなのか、それとも否か。「危ないからやめちまえ」と言うのは簡単だ。それなら記者も楽できる。

 しかし、世間では報道されるに至らなかった事実は「ないもの」と見なされる。実際、特捜部が家宅捜索に入ったとされるが、報道されなかった(心証が足りず報道できなかった)ケースは実際には山ほどあるだろう。
 今回の家宅捜索も、部外者の立ち入りが厳しくコントロールされている六本木ヒルズに家宅捜索に入った、入られたことを、正式な事実として知っているのは、「発表しない」特捜部当局者(行列をなす地検の人間=大半は事務官だが=は取材に答えないよう厳命されている)と「家宅捜索の事実を当事者として発表することが、企業の死活的損失になる」ライブドア、それとせっかくの貴重な有名企業の店子に傷を付けることになる「森ビル」の三者だけである。
 いずれの当事者にも公表するメリットがないとすれば、極端なことを言えば堀江社長が逮捕、起訴され、「否応なく公開が義務づけられる」初公判まで、その事実を隠し通すことさえ(実際、法律上の発表義務という考えでははそうなる)可能になる。
 実際、これまでのライブドア社の経済的な行動をみても、外部の報道ないし、法律上の義務が課されなければ、ライブドアが捜索の事実を公表した可能性はまずないのではないか。

 今日の株価の動きがいみじくも語っているように、ライブドアへの家宅捜索はそれほどまでに日本を揺るがす重大な事実だった。それを初公判まで当事者以外誰も知らない、あるいは「マスコミ各社の配慮として、取材で知り得た家宅捜索という事実をあえて公表しない」ことが、本当に市民の利益に繋がるのか?

 「確たる真実でないもの、誤りを含む可能性があるもの」だから、現場記者の取材努力(や、彼らが事実関係で危ない橋を渡るリスクテーク)を無視して、今回の報道を「風説」と断じるのはたやすい。
 しかし「読者が知りたいことを(まさに顧客の商業的ニーズに応じて)知らせること」こそが、ライブドア的なものを支持するブログスフィアの空気が求めていた「あるべきメディア像」ではなかったのだろうか?
 まさに今回の報道にはものすごい「顧客のニーズ」があった。それを証券市場が実証した。
 それを今回のライブドアを対象にしたケースにだけ、既存メディアに「無謬性」や「社会の良心」を求めるとするなら、それはある種のご都合主義ではないか、と思うのだが…。