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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

事故と戦争で考えさせられた友人のエントリ

 今日は終戦記念日
”北海亭の上で働く社長ブログダイエット”さんのエントリ「上を向いて歩こう」 より引用

今から20年前。日付は明日ですが1985年8月12日。やはり東京発大阪行き日航123便はビジネス客だけではなく、帰省客もいて、やはり満席だったそうです。乗員・乗客あわせて524名。
 しかし、この123便は、大阪空港に到着できませんでした。ボーイング747SR型機は、520名の尊い命とともに群馬県の山中に消えたのです。
 飛行機に限った話ではありませんが、安全性は、すべてにおいて非常に大事です。
 でも、完璧な安全性というのは、あり得ません。
先日の尼崎列車事故での議論に「新しい列車は衝突事故に弱かった」という話がありました。確かに、そうかもしれません。
 しかし、列車は自動車ではありません。衝突事故の可能性は、ほぼゼロにコントロール可能なものです。
 新しいタイプの列車の、製造コストや消費電力におけるメリットのほうが衝突事故時の安全性よりも大事ですし、衝突事故は別のやりかたで、ほぼゼロにすべきことです。
 その場面で本当に大事なことは何か。判断できることが、必要だと思っています。

みやっとさんの"日記なぞ…"の「杉並区が中学の歴史教科書に扶桑社版採択(補足)」より(一部略)

 先般扶桑社版の教科書が採択された件につき、それほどの問題ではないとし、これを反面教師として教材として使用すべし、と投稿しました。
 しかし、その後再度考えて、先般の投稿は誤りであり、このような教科書は採択すべきではなく、やむなく使用せざるを得ない場合は、そのような(反面教師として)使用を次善の策として行うことが望ましい、と修正させて頂きます。
 理由は、「日本将兵は敢闘精神を発揮し、よく戦った」のくだりです。
 もし、そのような表現が記載されているのであれば、教科書についてはそのような多分に情緒的な表現すべきではない、と思います。なぜなら、誰が、誰の戦いをそのように評価したかが、おそらく一切書かれていないからです。その場合、単に印象か、あるいは感想を述べているにすぎず、かつ事実をむしろ歪曲していることからして、このような表現を載せている教科書は使用すべきではない、と思います。
 小生が思うには、敢闘精神よく発揮し奮戦というような表現は、戦時中の大本営等よりマスコミを通じて流されたスローガン、プロパガンダの類であると思います。
 そして、実態は、前線の将兵は、多くの戦線で敗色濃いなかでも、戦病死・餓死が多数を占める悲惨な戦いを強いられたし、場合によっては、死ななくてもよい民間人まで犠牲にさせられた訳で、なにも好き好んで「敢闘精神」を発揮していた訳ではない。多くの場合、「敢闘精神を発揮することが望ましい」という軍部の希望が、「敢闘精神を発揮し戦っているはずだ」という押し付けへ転化し、その結果、「敢闘精神を発揮して良く戦っていることになっている」「それ以外の事象は認めがたい」となり、事実を歪曲することとなる。そして最終的には、そのような軍部の言う所の「事実」と異なる事象は抹消される訳である。
 これはノモンハン戦やインパール作戦等、あげれば枚挙に暇なし、である。
 当時そのようなプロパガンダを流す方にいた人も、その犠牲になった人も多くは鬼籍に入っているであろうし、遺族が、その親族が「敢闘精神を発揮し、よく戦った」と思っていても、これに何をいうものでもない。
 しかし、事実ではないプロパガンダを、戦後時間も経過し、検証することが可能な立場にありながら、これを無批判に、あるいは積極的に教科書に記載をする、ついてはプロパガンダを再生産するような行動は断じて容認しがたく、同じ民族として恥ずべき行為であると思います。

 小生思うに、全く同感なのです。
 特に「北海亭の上で働く社長」の記述はさすが理系(私は飛行機好きじゃないですが)。
文明には危険が伴うのです。人が道具を持ち、火を使い始めたときから。
 それを減らすのはもちろん科学的、合理的な行動です。
しかし「ゼロにしろ」といった瞬間に、それは「宗教」になってしまうのです。
 日本人は総じてびっくりするほど優秀な人たちだと思うのですが、いったん組織や制度を作ってしまうと、当然最初は最適化されているのですが、そのうち硬直ぶりがどんどんひどくなってしまって本当に壊れるまで改革できない、という悪い面があります。
 帝国陸海軍しかり、憲法しかり、自民党しかり。
日本人は『長期最適化』という発想が苦手な気がします。「焼け跡から高度成長した」と誇ったところで、もし戦前に「大戦後に高度成長できる」と分かっていたなら、そもそも満州経営は必要ありませんでしたし、戦争も必要ありませんでした。
 帝国海軍が壊滅すると分かっていたら、ABCD包囲網で油がじり貧になっても、誰が対米開戦したでしょうか。
 どれも、きちんと経済統計が読める人がきちんとした判断を行っていれば、十二分に可能な予測でした。
 (バブルの一時期日本型経営が「長期的視野に立って経営を行っている」ともてはやされたことがありましたが、結局単なる株主軽視と、社内官僚制内部の抗争の帰結にすぎなかったのではないでしょうか…)
 その点でみやっとさんの記述ももっともなのです。
 私は地歴・公民科の教員免許を(お飾りですが)持っています。扶桑社の教科書は既に一般書店で発売されており、読んだ範囲では、中国や韓国が強硬に主張するような「軍国主義賛美」の教科書とは、全く感じられませんでした。
 一方で「日本将兵は敢闘精神を発揮し、よく戦った」のくだりは、紙数の限られた教科書としてはやはり無意味な記述だし、あえてこういった主観的な表現を盛り込むことにより(おそらく著者はどうしても入れたかったのだと思いますが)、歴史書としての評価を大いに下げていると思わずにはいられませんでした。
 たとえば扶桑社の教科書には「陸海軍大臣現役武官制」の記述があります。確かに現役武官制が戦前の日本軍部による内閣のコントロールに結果的に大きく寄与したのは事実です。
 しかし、それは手段にすぎないのであって、軍部の意図を説明しているわけでもないし、対中対米戦争という結果を説明しているわけでもない。限られた紙数の中学の歴史教科書に手段の詳細な説明が本当に必要だったのか、疑問の残ることです。
 不採択の理由として多くの教委が挙げた「中学生には難しすぎる」という理由は、限られた授業時間を考えれば、単なる方便とは言い切れません。
 私個人としては、扶桑社の教科書を与えられても、十分に自分の思ったとおりの授業をすることはできるだろうし、そもそも「教科書が悪いから生徒が正しく学べない」などという(教職員組合などの)主張は、単に歴史・公民教師の怠慢を正当化するものにすぎないと思っています。
 私は愛国者だと思っていますから、国の歴史を前向きに描こうという教科書があっていい、という著者と出版社の意欲は十二分に評価できます。もちろん「日本の兵士は(乏しい物量のなか)、見ず知らずの遠い戦地でびっくりするほどよく戦った」と思っています。
 でも、それを教科書に”あえて”書くかどうかは、全く別の話です。
 どの教科書であれ、教科書は「客観」を書き、記述を通して生徒に「客観的なものの見方」を教える、という重要な役割を持っています。
 検定を「かいくぐって」個別の記述を盛り込むことにこだわるあまり、なんというか、中途半端な出来映えになっている気がしてなりません。あえて教科書という体裁をとらずとも、もっときちんとした形で出版すれば、もっといい本になったのではないか、という気がします。