雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

人は自分を表現したいという願望が潜在的にあるというけれど」

 というメールへの返信を書いた:

 ブログは、「ガ島通信」というのを書いている人が昔の知り合いなので誘われ始めた次第。新聞記者だった彼はそれが本業になってしまったが。。。

 ホームページに昔いろいろ書いた(ひどい)文章の残骸が残っているが、仕事を離れて文章を書きたいと思ったのは入社して4年目くらいかなあ。
 要するに「新聞に書けないことがある」ってことに気付いたんだよ。
 それは検閲とかそういうことじゃなくて、新聞という、日本語の中でも特殊なフォーマット(限られた字数、独特の決まり切った表現、5W1H、情報の並べ方)で表現しきれないことがあるっていうかな。

 で、「表現しきれないこと」の中に、一番取材者が伝えたいことがある、ってケースが多い、多すぎる。
 それは書いている人間にとって、寂しいこと。
 表現しきれないことは、ちょっと開高健の表現を引用すると、場の「空気」めいたものというのかな。逆にそれはテレビの方が伝わりやすいのかも知れない。
 ただし、限られた紙面で、できるだけの情報を詰め込むのも新聞の使命。だから、それを否定するわけじゃない。でも新聞社の宣伝みたいに「あれだけ読めば世の中が分かる」なんてことはない。

 3年間は、その「特殊なフォーマット」を覚えるので一生懸命。
 ようやく、「『一次情報が揃いさえ』すれば、起こったことはある程度、客観的に見て合格点の原稿が書けるかな」という自信というか、安心感めいたものが出てきたときに、その寂しさを猛烈に感じた。
 これではいかんと思った。本業の方がダメになるというか。
 組織の中で見ていると、それを感じない人もいるんだね。そういう人は幸せだと思う。

 あと、貴兄がどう思っているかは分からないけど(貴兄こそそう思っているような気がするけど、笑)、僕は自分が異端とまでは言わないが、日本の組織では「決して主流にはなれない」ということも、なんとなくその時期に悟ったような気がする。生徒のときは「学生になって専攻ができれば」と思ったし、学生のときは「就職すれば」と思ってたかもしれない。
 まあ別に傍流でいいんだけど、傍流でも居心地良く暮らしたい。
 そのためには、価値観の近い人、あるいは対立しても共存できる人を増やすのは、決して悪いことじゃない。一人じゃ生きられないから。

 貴兄のように「相場を張る」のなら一人の方がいいかもしれないが、金融の比喩を借りて言えば、僕の中のイメージは、「一風変わった運用方針を掲げるヘッジファンドの原資を集める」、というのに近い。
 まして、相場の世界はゲームのルールがかなり決まっているが、政治や社会はどこの国でもルールがあってないようなもの。生身の人間同士だから。
 まあ、ルールがない中でも、人間は生きている限り共通の欲求があるわけだから、不確かながらルールらしきものはある。
 それを見出して、予想(分析)が当たれば喜ぶ、というのが政治学徒の生きがいなわけなのだが。