雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

朝の日経新聞

 バブル真っ盛りの頃、東京の満員電車で通学していました。
 朝8時ごろの地下鉄、手に手に日経新聞を持っているサラリーマンの姿を見て「よくあんな難しくて高い新聞が読めるなぁ。大人って凄いなぁ」と感心することしきりでした。
 時を経て大人になってみると、あの新聞を全部読みこなせる人は、あの中のごくごく一部に過ぎなかったということに気づいたわけですが(笑)
 確か、日経新聞は駅売りでも他の新聞より高かったように記憶しています。いまでも確かそうでしょう。
EPIC2014の予測について多くの人が書いています。
 率直に言って、というかもう何度も書いていますが、紙の新聞はもう衰退期に入っていると、就職する前(ということはもう10年前!)から思っていましたし、その考えはいまも変わっていません。
 ちんたらとダイアルアップで接続しているから読みにくいので、高機能ブラウザと常時接続回線が確保されれば確実にその方が早い情報が手に入ります。紙の一覧性の優位とかいいますが、データベース性やリサイクルまで考えたコストではネットの方が格段に上ですし。やがて、紙の新聞を読むことは贅沢とされる時代が来ると思います。

 さて、そこで問題になるのは、結局個人が情報にいくら払うか、ということになるでしょう。
 日本人は民放テレビの無料放送+広告モデルにあまりにも慣れすぎてしまったので、情報に金を払うのという習慣が(新聞購読料は数少ない例外として)定着しませんでした。NHKの受信料不払い問題も、たまたま不祥事で噴出したわけですが、受信料が人件費などの徴集コストに見合わないような構造(これは財政学の禁忌です)では、いつか破綻して、スクランブル放送化か、国の補助金投入が避けられないということは、以前から伝えられていたように思えます。
 結局、平均的な一般大衆が一人あたり情報にいくら投じるかが問題で、紙であれ、ネット主流であれ、その金額でその国が養える職業ジャーナリストの規模が決まるように思えますが、いかがでしょうか。
 朝の電車の日経新聞のように動機が見栄であれなんであれ、投じる金額が多ければ、(当然健全な国際競争を前提としてですが)国内、国際報道の水準は上がっていくでしょうし、携帯電話のような個人間のコミュニケーションに投ずる金額の方が、政治やら社会やら国際情勢ということよりも重要と判断するなら、それなりの水準になるでしょう。
 もしそれでも「国益を代表するメディアが必要」と国が判断するなら、欧州では当然とされているような国家補助金の投入が避けられなくなるでしょう。
 実際、きわめて水準の高いblog(いぜん無料かつ匿名での発信ですが)の出現と、地方の街場の会話のレベルの分化をみるに、特にその2極分化が猛烈に進んでいるような気がします。
 匿名発信の多さは(まぁこの原稿も匿名なんですが)日本のメディア界のきわめて重要な特性だと思いますので、また別稿で書きたいと覆います。
 まあいずれにせよ、「○○県警担当4人。キャップ、サブ、署回り2人*15社」なんていうのは昔語りになるでしょうが。ニューヨークタイムズのNY市警担当は1人、ドイツ通信社の首都にいる記者は十数人だそうですから。