雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

ПРАВДА?(規制論の真実)

 「マスコミ報道の横暴を防ぐため、政府=法によるメディア報道の規制が必要だ」とする主張について。
 私はマスメディア企業の末端にいる人間です(別にメディア論が好きなわけでもありません、誤解なきよう)。
 私の考えがあるとすれば、「一記者としていえば、規制はない方がいい。企業の一社員としては、規制があれば楽できるし、会社も安定するなぁ…」と思っています。
 考えてみてください、報道内容は商品です。商品の内容を規制すれば、今よりさらに自由競争から遠ざかります。編集局長の隣に検閲官が座るのか、社長が天下りになるのか分かりませんが、規制業種になれば、かつての銀行や道路公団、特殊法人のようになっていくのではないでしょうか。

 東京地検特捜部長が「マスコミはやくざ者より始末におえない」と言い放ったとか報道されていますが、そうまでいわれてもまだ特捜部長に取材に行こうとするのは、社内外に競争があるからです。(競争のベクトルがずれていると感じることはよくありますが…)。いみじくも部長の文章に書いてあるように、他社との、社内での競争に負けたくないから、家の前で立ちんぼして夜討ち朝駆けをやるわけです。
 政治であれ捜査であれ、当局に不利益なことは書けない(書かなくて良い)ということになれば、もうそんな取材はしなくて良くなります。必死に権力に取材したって、どうせ書いた記事は差し止められるのだから、早く帰って家で遊んでいても結果は同じです。芸能人のインタビューとかやっている方が楽しいですしね。

 規制が入れば、当局との距離はより近くなるでしょう。政府に不利益な記事は差し止めればよく、向こうも恐れる必要がないのですから、お互いもっと仲良くできるはずです。かつてユーゴスラヴィアベオグラードの中国大使館を米軍機が誤爆したとき、大使館内の死亡者に国営新華社通信の記者がいて驚いた記憶があります。つまり新華社は大使館内にオフィスを構えていたわけです。
 商品の差別化をしなく(できなく)なるので、寡占は進むでしょう。国営化されることがあるかも知れません。そういう国もあります。というか、世界にはそういう国の方が多いです。
 人民日報や、かつてのПРАВДА(プラウダ)ТАСС(タス通信)のような社会主義国の記者は、事実上外務省の別働隊、スパイ機関に近いものであったとされ、母国でも海外でも桁外れの厚遇を受けていました。そういえば確かゾルゲも新聞記者でしたよね。
 日本でも「上海時代」(中公新書・松本重治著)なんかを読むと、現代中国史の本として読んでも面白いのですが、当時の国策メディア・同盟通信と政府部内の人間の距離がいかに近いものであったか驚かされます。
 つまり、法規制が導入されればひょっとしたら今より働かずに済んで、給料が上がるかも知れません(笑)

 別の視点から。
 法的に規制しようとすれば、まず規制対象を定義しなければなりません。法規制の必要性を訴えるネット上の論者は、自らの言論の場であるブログや「2ちゃんねる」のような場が法規制されるとは想定していないと思いますので、論者が想定している規制対象=マスメディアは「日刊新聞、週刊から月刊の雑誌→定期刊行物のうち一定の発行部数をもつもの(注:メルマガは含まれるのかなぁ?)」といった形で定義できるかも知れません。
 しかし、おそらくこの定義で規制をしたなら、おそらくこの対象となっている「マスメディア」に新規参入する企業は、今後まずあり得ないと想定できます。(注:今でもテレビ局、新聞社への新規参入はほとんどありませんが、それはテレビ局には電波法の国家規制があり、新聞でも駅の売店の販売棚とか、そういった権益による経済的な参入障壁があるためです。それに今や新聞社は儲かりません。規制の少ない出版社でも、最近の新規参入は幻冬舎くらいでしょうか)
 なぜか。小さな新聞(放送局)を始めて、商品をよくするため、努力に努力を重ねてようやくメジャーになったとたん、いきなり規制対象になって、商品の内容に規制が加えられるわけです。検閲官が来たり、天下りを受け入れたりしなければなりません。それが分かり切っている(法律で書かれているわけですから)業界に、どの実業家が新規参入の意欲を燃やすでしょうか。かつての護送船団方式で、MOF担が接待ぶりを競い合っていた銀行界に、だれも新規参入しなかったのがよく似た類例だと思います。
 しかし、当時の日本の銀行界は人気業種、給料も(マスコミなんかより遙かに)高給取りでしたよ。

「ガ島通信」氏と小生はネット外でも知人ですが、「マスメディアが爛熟期から衰退期に入りつつある」という認識では共通しています。規制業種になって、経済学の原則通り寡占が強まって、まかりまちがって特殊法人、国営とかになってくれたら、我々も公務員。老後の心配もなくなるのですが…(笑)

 まぁ、私のあまのじゃくな性格を反映してニヒリスティックかつ逆説的な見解なのですが、そういうメディア業界への規制を望む人がもし日本に多いのであれば、それも仕方ないのでしょうか…。

 ここからは半分余談です。こっちの方が私の趣味を反映しています。(メディア論は食い扶持の仕事に絡むので、無償の原稿としてはリスクを取って書きたくないのが正直なところです)
 よく知られていることですが、戦後の日本にはアングロサクソン的な政治、経済上の自由(”報道の自由”も含めて)が占領軍の手で上から導入されましたが、一方で戦前から引きずった旧来型の秩序も多くあります。司法や行政(大学も)の官僚制は、明治時代にプロイセンから導入した制度を戦後も踏襲しました。
 戦前ドイツ流のの権力一元論というか、「法の支配」、国家主義的な考えからすれば、法律には一行も書いてない、何の資格もない人間がやっているのに、政治、経済的な機能を持つ(その機能が権力といえるほど強大かどうかはさておいて)マスコミのような存在は許容しがたい、便宜を図れなんてとんでもない、と考えてもおかしくないと思います。
 私は学生時代、政治文化とか、圧力団体とか、たとえば「文明の衝突」とか、あらゆるものの価値を相対化して捉える、アメリカ的な比較政治学を少しだけかじったのですが、同じ法学部の権力一元論的(まぁ三権分立といいますが)な法学の授業と比べて、「これだけ世界観の違う学問が共存していいのか」と疑問がつのったことを覚えています。(その点では件の特捜部長は「法曹界の秩序に忠実で有能な司法官僚」と言えるのかも知れません)。
 私が社会で何年か働いて得た感想では、そう言う考えの持ち主は、政治や経済の現場から遠い官庁(だから検察とか警察とか)の官僚に多いように思えます。最近は検事もアメリカのロースクールに留学するそうですが、弁護士資格だけ取って帰ってくるのでしょうかね…
 
 そういう政治学の立場では、たとえば「ソ連にも市民の意思を吸い上げる仕組みはあったし、ヒトラー国防軍は競争関係にあり、権力は制限されていた(時期があった)。サダム・フセインですら指導部人事のバランスには細心の注意を払っていた。でも不十分だった」という説明がされます。絶対的な価値を置くことは本質を見誤らせる。全ては相対的であり、比較の問題であると。
 ではどうして民主主義なのか。複数政党なのか。政権交代なのか。

 一つ言えるのは、施策や法規制というものは、薬と同じで、主効能と副作用があります。政策が思った通りの効果”だけ”を上げることはほとんどないといってよいと思います。
 ナチズムコミュニズムへの反作用から生まれました。確かにドイツの社会主事革命は阻止されました。その効果が絶大だったからこそ、英首相チェンバレンは宥和政策をとったのです。
 初期のナチズムが生んだ第一次大戦後の疲弊からのドイツの経済的復興は、効率的な独裁制だから可能であったので、民主政治の下では決してできなかったことです。ソ連スターリンは遅れた農業国を一時は世界の超大国、最先端の宇宙と核技術を持つ国にまで押し上げました。これも民主主義の下ではなしえませんでした。
 しかしそれが良かったとは言えないでしょう。どちらの国でも数百万の人間が戦争と粛清の犠牲になりました。

 民主主義は非効率ですが、極端を避ける効能があります。
 ある方向に政策をとり、その罪悪が効能に比べて著しく増えれば、国内に民主主義の合意がなされていれば政権交代がなされ、元の方向に戻ります(前の政策を支持していた人間にとっては、逆戻りの非効率は耐え難いと思いますが)。独裁ではそれができないので、一方向に政策を決めてしまうと、メンツもあって後で罪悪の方が大きくなっても(よほど賢明な独裁者でない限り)それを変えることができません。(と、亡命ポーランド人の大学教授は書いていました。こういった人物を一流大学の教授に据えて研究させる寛容さが、アメリカの強さだと思っているのですが)
 独裁者は無謬だから独裁者でいられるので(ホー・チ・ミンはそうではなかったとか…)あって、誤りを認めるのは権力の座からの転落への第一歩になります。

 結局、私は民主主義が定着した国家であれば、メディアであれ、経済行動であれ、国家による介入は必ずしも悪ではないと思っています。しかし日本で今、本当に民主的な政治文化が定着し、民主主義は成熟しているのか?
 見解は分かれると思いますが、政権交代すら戦後ほとんどないような(別に左翼政権を望んでるわけではなくて、保守政党同士で政権交代してもよい)日本の政治状況を考えると、懐疑的にならざるをえないところがありますね。