雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

東は東、西は西…(2)

 東西冷戦の「鉄のカーテン」。この言葉が英国首相のW.チャーチルの作であることを知っている人は多いだろう。
 そして、「フルトン演説」という言葉を世界史の試験用に覚えた人もいるかも知れない!?。この「鉄のカーテン」という言葉は米国ミズーリ州のフルトンの大学での講演が初出である。
 では、カーテンはどこからどこまでだったのか。原文は、
"From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic an iron curtain has descended across the Continent." Winston Churchill 1874-1965: speech at Westminster College, Fulton, Missouri, 5 March 1946

 ヨーロッパ大陸を分かつ鉄のカーテンは 「ステッチンからトリエステ」までだった。トリエステベネツィアのちょっと東、現在はイタリア領の東の端、旧ユーゴのスロベニアとの国境にある渋い地中海の港町だ。ではもう一方は。
ステッチンは領有国の原語主義に拠れば「シュツェチン」。ポーランド領のバルト海に面した港町である。
 となりはグダニスク。ドイツ人はハンザ同盟以来の由緒あるこの都市を、グダニスクではなくかつてダンチヒと名付けた。

 さてこの演説で、チャーチルが一つ暗黙の前提としていたことがある。それは「ステッチンの東側もヨーロッパだ」ということだ。当たり前だといわないでほしい。つい最近まで日本人の頭に刷り込まれているヨーロッパ=西欧。そしてドイツより東にある国々は共産圏、ソ連の一部であるかのように思っていたのですよ。

 さて、ウクライナの話に戻ると、ユーシェンコ元首相が地盤とした西部のリビウ(Lviv)という町をみよう。この街はかつて、少なくとも3つの名前で呼ばれていた。ウクライナ語でリビウ。ロシア語ではリボフ。ドイツ語ではレンベルク。リビウは第一次大戦まではオーストリアハンガリー王国の領土のレンベルクだった。そして第二次大戦まではポーランド領のリビウだった。第二次大戦がソ連の勝利に終わり、ドイツの領土を大きく削ってポーランド領土が西に移り、ポーランドの東側の領土を削ってソ連の領土が増えた。
 そしてリビウはソ連邦ウクライナの街に。ソ連公用語ロシア語でリボフと呼ばれることが多くなった。
 でもこの街は、ソ連邦の一部でも、間違いなくヨーロッパなのだ。チャーチルの脳裏で「還るべき都市」なんである。
 そう、カントの故郷、ケーニッヒスベルクがソ連カリーニングラードとして、カーテンの向こうに消えたように…
 かつてレンベルクでは、ドイツ人の国家統治の下で、ポーランド貴族が支配し、ウクライナ人はその下で働いていたという。しかし、いまのレンベルクにはドイツ人もポーランド人もいない。東ヨーロッパでは、第二次大戦の終結の際、数百万ともいわれる多大な犠牲を払って、悪名高き「民族浄化」が行われたからだ。
 それでも記憶は残ったから、カーテンが消えるやいなや、リビウの人々はより豊かな西(のポーランド)へ当然のように引きつけられていった。
 ウクライナ語と言うが、スラブ語をある程度やったことのある人間であれば(ひいきの引き倒し=ある地域を好きになり研究を始めると、あたかもその国民であるかのようにそのナショナリズムを代弁する日本人がいる)その相違が、ウクライナ語とロシア語、ウクライナ語とポーランド語は、標準語と津軽弁や沖縄方言の差より、遙かに違いが少ないということが分かるはずだ。極端に言えば、べらんめえと大阪弁の違い程度かもしれない。
 つまり、お互い「分かろうと思えば分かり合える」言葉。でも、それを「お互い分からないように(差異を際だたせる)見せる」のがナショナリズムの魔術なんである。(続く)