雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

終わりの始まり、始まりの終わり

 大統領選挙後のウクライナ情勢が緊迫する中(こう書かないと始めた日を忘れてしまう)、ブログ実験を始めてみることにしました。
 なぜ「実験」かと言えば、およそ日記とか「継続は力なり」ということに無縁な人間なので、たぶんほったらかしになるんだろうなぁーと思いながら始めた次第。
 本ブログ、昔からの知り合いたる「ガ島通信」氏のブログに刺激を受けたのは本当ですが、あんな立派なことは書けませんので、こちらは適当に、カジュアルにやりたいと思います(ちなみに、ガダルカナルは悲惨な戦場でしたが、玉砕はしてないですよ)。
 なお、このブログは匿名で運営します。作者が実名で持っているホームページ(更新が滞っておりまして、すみません)からリンクをたどってきた方も、その辺は十分ご留意いただければ幸いです。
 筆者が属する古いメディアの世界でも、実名、匿名は難しいテーマですが、消長自在のネットの特性を生かして試行錯誤してみたいと思っております。
 ちなみに、仕事は仕事、ワタシはワタシなので、本ブログの個人としての見解と社論、ないし社の見解は全く関係ありません(匿名なので書く意味があるか疑問ですが、一応)。
 最後に、書くことによってあらゆる問題を引き起こしながら、それでも記録することの意味があるのか。
 それについて、私のかつてのボスの文章より(私的なものですが)
 自らの記録と歴史を持つということが、いかに重要なことであるか。
 

フリードリヒ・エンゲルスが作り出し、オットー・バウアーが彫琢した「歴史なき民族(geschichtslose Nationen)」という悪名高い概念がある。自らの支配階級をもたない民族というほどの意味である。そこには歴史を作るのは支配階級のみ、という考え方がある。その当否はさておいて、スロバキア人こそはまさしく「歴史なき民族」の典型である。「歴史なき民族」の歴史博物館は自己矛盾である。そこには本来展示するべきものがないのだ。
 たとえば、日本人が長い間、経済的には中国人に支配され、政治的には朝鮮人に支配されていたとしよう。日本人はその下で農奴としてまったく従属的な役割しか演じてこなかったとしよう。ある日、中国人も朝鮮人もいなくなって日本人の自治が実現したとしよう。その日本人の歴史博物館に展示すべきものは何になるだろうか。ほとんど何もないに違いない。そのような歴史博物館を作ったら、それこそ「歴史なき民族」を実証してしまうことになる。中国人の歴史も朝鮮人の歴史も自分たちの歴史であるニ感じとる姿勢がなければ、歴史をわがものにすることはできない。スロバキアの歴史は難しい問題を突きつけている。彼らはまだ自分たちの真実に直面することができないでいる。