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雑観練習帳

ニュースの現場で思うことつれづれ

選挙話に乗らない理由

 たぶん、たいていの日本人より、私は日本政治に詳しいはずだ。専攻は政治学だったし、仕事を始めてからも結構長い期間、選挙や行政を間近に見てきた。日本のメディアで、地方も規模もまったく異なる3県政の取材を担当したことがある記者はほとんどいないはずで、そういう意味では警視庁担当の社会部記者であった池上彰さんよりも詳しいことになる。誰かさんが「知事クラッシャー」とあだ名をつけていたが、私が担当した県知事はみな、自らの意に反して辞める羽目になる、という不思議なジンクスがあり、出直し選挙やら定例の国政選挙やら、選挙には縁があった。出口調査とか、開票所で双眼鏡でサンプル調査する「バードウォッチング」の黎明期からずっと選挙取材しているので、統計理論に基づく取材技術の進化も体験している。出口調査がどれほどまでに当たるかと言うことも。。。ついでに言えば、特派員になったので、(複数の)海外の選挙も真剣に分析する羽目になった。

 というわけでたまに、議論を持ちかけられることがある。政治ウオッチャーなのだから意見を持っていないはずがない。ただ、「何党が好きか」とか「この政策が○だから(あるいは×だから)○党に入れるべきだ」という議論にはどうにも食指が動かない。床屋の隣の席で(いまは床屋に行かないからそういう会話もないのか)にやにやしながら脇で聞くから床屋政談なのであって、酒の席やフェイスブックでそういう話を延々と聞かされると白ける。まして「けしからんマスコミが~」みたいな話になるともう駄目である。

 なぜかというと、そういう議論にはあまり本質的な意味がない、と思っているからなのだろう。


 選挙というのは「約束」であると思う。

 何党が公約を守るとか破ったとか、そういう話ではない。制度設計はいろいろあるが、日を決めて全国民が投票し、秘密無記名、1人1票で、きちんと箱を開けて数え、出された結果には不服であっても暴力に訴えずに各勢力が従う、という「約束」である。

 当たり前のように見えるが、世界全体として見れば、この「約束」が守られている国は、人口ベースでは多数とはいえない。比較政治学の基本テキストに書いてあったように思うが、人口の多い中国に選挙がないことが大きく効いている。人口増が続く中東・アフリカの多くもそう。選挙があっても「競争的でない」という点で言えば、大国であるロシアやイランも多分含まれる。インドに競争的選挙があることがとりあえず救いである。人口ベースで見ると、インドの存在は権威主義レジームと民主主義レジームの世界戦争において、相当な貢献を果たしているわけだ。

 そういう意味で、日本ではこの手続き上の「約束」がとりあえず守られている。生データを見た経験から、出口調査が恐ろしいほど当たっているということからも、開票が統計上正確に行われており、この「約束」が守られていることが分かる。*1
 選挙とは統計そのものであり、だからこそいまどきの政治学が急速に数理モデル解析に向かっている理由でもある。いまどき陣営取材だけで当確を打つ会社なんてないし、陣営のベテランよりもメディアの方が正確な当落予測ができる時代になった。(ただし膨大な人件費がかかるのでいつまでも続けられないので、その後はSNSの書き込みなどからのビッグデータ解析の時代が来るかもしれない)


 政策がどうこうというのは。そこまで行きついた上で、なのだ。
 子どものある人、ない人、老人、若者、金持ち、貧乏な人、シングルマザー、もともとそれぞれに利害は異なる。だから、「制度はきちんとしています。あとはそれぞれの利害や好みに応じて入れてください」というのが(政治学徒の)基本的な態度なんじゃないかと思う。*2投票率がというけれど、本当に重要だと思うなら、みんな投票に行くものだ。ミャンマーで今年実例があったばかりである。

 ここで言う政策には、もちろん憲法改正の是非も含まれる。外交とか国防という話は、自国だけで決められるものではなく周辺状況に依存するので簡単ではないのだが、もともと国防費というのは、雇用に資するとか防災面もあるとかいろいろ言いつつも、公共投資としては乗数効果がまったく期待できない分野なので、海外植民地が獲得できる状況でないのであれば、経済的には「自国の安全が守られる限りにおいて」最小化するのがベストである。
 日米安保という集団的安全保障に依存し、防衛費を世界的に見て低いレベルに保ってきた日本の自民党政権の安全保障政策は、その意味で(日本経済にとって)おおむね妥当だった。米ソの冷戦が終わった後、欧州内で軍備を増強した国が存在しなかったという事実からしても、それは裏付けられる。その過去に対する肯定的評価を共有するという意味で、わたしは保守主義者である。

 さて、ここで微妙なのは「競争的選挙、しばしば政権交代」という非効率な(民主主義とは非効率なのだ)制度をアドバンテージととらえるかディスアドバンテージと捉えるか、という点でも議論を持ちかける人がいるという。これは簡単なようで案外難しい。
 最近は「国の安定」とか「決める政治」というのがはやっているから、プロセスはともかく速く進めないと「バス(経済競争?)に乗り遅れる」という煽りがあるからね。あおりが利いている時点で、日本国民の中に、そこはかとない焦りがあるというのもうかがえるのだが…。

 非民主主義国のいくつかに住んだ経験でいえば、「約束」が守られるというコンセンサスが成立している効用とは、クーデターや、天安門事件のような大規模デモによる流血といった国内的、国際的コストを大きく下げることなのだと思う。民意を得ている間は政権にいるけれども、多数派の賛成が得られなければ下野するという「約束」を形によって保障するのが、競争的選挙制だから。

 だって、約束ができない、守られないというなら、暴力(テロ)に訴えるしかないからね。アラブの春が、多くの西側(先進国)市民の期待を裏切る結果に終わったのは、「約束」に対する信頼が、軍を含むそれぞれの政治的アクターの中にコンセンサスとして定着していなかった、ということなんだろう。クーデターやデモの武力弾圧といった事態は、確率としては低いけれども、政治経済上のリスクとしては非常に大きいし、デモに参加するのは多くの場合将来がある若者だ。経済制裁とかもあり得るし、何よりも国の「格」を下げる。

 日本のソーシャルメディアを見ていても、「投票の改ざんがないか心配だから油性マジックで書く」という人がいたそうだが、ちょっとした途上国に行けば、同一人物の二重・三重投票や物理的に投票箱を持って行くとか、候補者を殺すとか、票を焼いてしまうとかいくらでもあるわねえ。日本でもどの人が当選するかで公共事業や公務員の人事をめぐり経済的死命を制する離島の選挙などは、すごいことになってきたのが日常だった。
 少なくとも、日本の国政選挙ではいま、そういうことをする人はいないと”右から左”まで皆が思っている。これは相当に進化した、というか”安定した”段階だといえるのではないか。

 もう一つ感じるのは、競争的選挙は、ある程度まで政治的腐敗を抑制する効果があると思われる。昭和の時代といえば、与党政治家はさまざまな形態で賄賂を取るのが当然視されていた。地方選挙では票の買収も横行していた。*3パイの分配に政治的さじ加減が利いた成長期の国家だったこともあるが、それでも民主的選挙によって「政敵」の身分的安全が担保されることは、腐敗に対するけん制効果を呼んできたと考えられる。地検特捜部が思い切った捜査をしてくることができたのは、民主主義レジームがかたわらにあってこそだ。権力内の競争で十分ではないか(そもそも権力層が腐敗して何がいけないの?)という人もいるだろうが、まあそれはねぇ。

 もう少し踏み込んで言えば、経済活動の自由と、政治的公正は必ずしも同一ベクトルにはないともいえる。企業は民主主義ではなく出資(パワー)に応じた配当を受けるのが基本であり、競争によって優勝劣敗が起きるのが基本。
 これに対し政治というのは、一国である限りは、成員=全国民の効用を最大化するのが正しく、それがもっとも多数の支持を受ける、はずだが、ここに落とし穴がある。
 一握りの人間が効用の大多数を取ってしまう社会は、社会不安が増大し、不安定になりがちだ。それは「科学的社会主義」が発生する前から分かっていた。たぶんそれは、企業に(定まった)寿命がないのに対し、人間には寿命があり、無限に「再チャレンジ」ができるわけではない、というところから来るのではないだろうか。
 個人ががんばって競争に勝つのは本来は自由なのだろうが、人間は同時に嫉妬の生き物であって、そういう人物はシェイクスピアの時代から妬まれ、嫌われ、ボディガードがいないとおちおち街を歩けないし、実際にそういう国も多い。
図録▽世界の警察官数によると、「アングロサクソン系は自力救済の考え方からか警察官が少ないので犯罪も多くなっている(中略)日本についてはフィンランドとともに警察官が少ないにもかかわらず犯罪が少ないという理想的な状況にある」という。日本の現状を肯定的に見るか、否定的にみるか。

 もう一つ言えば実際のところ、ネット上の議論で「○○すればいいじゃん。何で××しないの」という提案はすでに行政レベルで検討され尽くしていることがほとんどである。日本の公務員は、はめられた法律という固い枠の中で、相当にがんばっている。大阪都構想なんていうのもあったけれど、それぞれの政策への是非論というのは、前提となる知識も必要で、効果もあるだろうがかならず副作用もあり、制度変更に伴う費用も無視できないレベルでかかり(民主党政権の高速道路無料化や公共事業見直しなどは典型)という具合で、阪神タイガースのスタメンのように「鳥谷と西岡下げて○×出せばすぐ上位浮上~」というわけには行かないのだよ…。

 在外投票で「なんで日数かかる国際郵便なのか。FAXで送れ!」という書き込みを見かけた。日本の各開票所には各候補者を代表する立会人が必ず存在し、票の束ごとに押印して票を確定させる。何のためか。それはどの陣営にも文句をつけさせないという意味での「選挙の公正」のためである。
 勝手に(在外公館の)外務省職員が開封してデータを(しかも非暗号のFAXで)送るというのでは、秘密投票も何もあったものではない。だから、海外で投票した票は二重の封筒に入れ、特殊小包で送り、開けないままで各自治体に郵便で再送付し、開票のときに台上に混ぜて入れるのである。国内郵便の秘密は法で保護されている。郵政は民営化されたけどね。*4
 電子投票ですら、一度の地方選挙でのトラブルで完全にお蔵入りとなり、経済効率としてはまったく無為な、手作業の開票と出口調査に基づく開票速報が行われているという次第である。システムが壊れることは滅多にないのだろうが「やり直し」ということが許されないのが競争的選挙の特性でもある。(一度選挙をやってしまうとその結果に基づいて誘導がかかるので、やり直しをした場合には2度目の投票結果は大きくゆがむ。決選投票で支持層が大きく動くのはそのためだ)

 英国のEU脱退をめぐる論議でも明らかになったように、国家の成員内での再分配の論理というのも難しい議論をはらむ。同世代の個人・社会階層間の再分配がよく議論になるが、世代を超えた再分配の問題も存在しているからだ。*5高額な教育投資は親から子への(恣意的な)再分配であるし、親子間を中心とした資産相続も同様だ。ちなみに安倍政権は相続税の課税を強化しているのだが、これを日本の伝統的な保守政治の文脈の中で位置づけるのはかなり難しい。だって、自民党の政治家の大半は2世、3世なのだし…。*6

 さて、というわけで、仕事でもプライベートでも偉そうなことを書いているのに棄権というわけにはいかないので、自分はいつも投票には行くことにしているのだが。。。

*1:ただし、かなり恣意的な形で地方と都市部間の定数是正が遅延させられており、これが適切な民意反映を阻んでいる事実は指摘する必要がある。

*2:ただ、不思議なことに、政治家になりたがる政治学者というのがいて、さらに言えば「政治家を多数輩出している事が自慢」の政治学科があったりして…。

*3:いまは激減した。政治家が「おいしい」商売ではなくなったということか。

*4:もちろん、いくらなんでもあの不便さは工夫の余地はあるんじゃないかと思っているのだよ…

*5:国民でない定住外国人生活保護を出すべきかという議論もこれに含まれる。

*6:まあ、相続税を払わなくてもいいように資産ではなく政治団体=家業化しているのだ、という批判もあり得るのだが。

イギリスと日本

 誤解がないようにいえば筆者は英国が好きである。ただ、「行きたしと思へどもいぎりすはあまりに遠し」であり、大学生にとっては物価が高く、「やっと3日もらえるのが夏休み」なサラリーマンにとっては、欧州でも遠く、飯もうまくなく、冬の陽が短い国はどうしても候補から外れる。結局ロンドンを訪れたのは2度にとどまる。1度目はイランからロンドンに行き、サヴィルローのバーバリーで黒人の店員に丁寧な説明を受けた後トレンチコートを奮発して購入、2度目はF氏と「休みたいね」と言って結局動き回ったマジョルカ島の帰り、やはりピカデリーのバブアー(Barbour)で奮発してジャケットを買った。それだけだ。
 大英帝国が世界に覇を唱えた時代はとうの昔に過ぎた。それでも、英国でのEU離脱投票がこれほどまでに大きな関心を集めるのは。近代日本の第一の師であったイギリスに近しい感情を持つ日本人は依然多いのだと感じる。以下はいろいろなところでさまざまなに語られている分析へのわたし個人の感想である。

イギリスはおいしい (文春文庫)

イギリスはおいしい (文春文庫)

 イギリス本と言えば「イギリスと日本」という有名な(しかし古めかしい)同名の書がある。読んだのは、まだ生徒と呼ばれる時代だった。その後、林望先生の「イギリスはおいしい」もかなり流行ったように思う。黄版の岩波新書で森嶋氏が描いたのはサッチャーが登場する前の「英国病」に悩む英国であったが、サッチャーが登場した後の新著で、森嶋氏が彼女に対し極めて冷淡な態度を取ったことに当時、驚いた記憶がある。

その後、イギリスは北海油田の恵みを受けつつ金融、サービス業主体の経済に転じ(既に家電どころか自国ブランドの車など皆無に等しい)、サッチャー政権とその後の各政権がいわゆる「構造改革」を行ったことで外資を誘致し。。。というシナリオを描いた。日本人もバブル経済を経た豊かさの中で、欧州への留学、駐在などの機会は飛躍的に増えた。その中で、欧州で数少ない英語圏で大学教育の優位もあるイギリス(多くはロンドン)に滞在し、結婚などでそのままイギリスに住み着いた人も多い。
blog.ladolcevita.jp
イギリスがEU離脱した理由 - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

さて、私がいくつかの海外駐在の中で思っていること。それは「人が知り合える相手というのは立場において限定される」という当たり前といえば当たり前のことだ。これは日本の転勤族でもそう。留学生であれば相手国の大学生、教師。駐在員であれば社内の現地スタッフ。通っている学校の先生。結婚であれば夫(とその知人)。。。日本国内ですら、地方某市に東京から出向した高級官僚が、「友達ができなくて。髪を切りに行く床屋さんと仲良くなったけど」とごちていたが、そういう面はある。人は大人になると、関心、話題などが自分と合う人間と付き合いたくなるし、限られた時間とスタミナの中でそれ以上を望むのは偶然でもないと難しい。
もちろん特派員は限られた知見ですべてを知っているように書かねばならないのだが、そういうわけでやはり、意識の片隅に「無知の知」をとどめおく必要があるのではないかと思っている。


 私の限られたロンドン体験。同期の特派員が移民街のポルトガル料理屋でつぶやいた。「この国には、半径1km以内の住民に大卒者が一人もいない地区、というのがあるんだよ」。
 ロンドン支局は中心部ピカデリーにある。英国人のスタッフもいる。「うちの支局のスタッフは貧困を原因とした事件が起こると『貧しさは努力の欠如だ。怠け者なんか放置していい』と言い切る。もちろん保守党支持。でも自分は外国人だけれれども、そうは割り切れない」と続けた。
 外国人にとっては定職ないし所属する学校があること(ないし英国籍の配偶者がいること)が滞在ビザを持つ条件だから、日本人がそういった地域に立ち入り、長期にわたって暮らすことは、ほとんどない。せいぜい知り合いの話として聞くだけだ。

 もちろん、労働者階級出身だから大学に行くことができないわけではない。奨学金もあるだろうし、英国は社会の中で格差についてもっとも真剣に議論を続けてきた国の一つだ。(英国はマルクスも住んだ「社会主義の祖国」でもある)。たとえば英国人のスタッフが指摘した「自己責任論」というのは、つまり枠組みとしての救済は既に存在している、そういった側面を指す。
一方で、21世紀になってもそういう地域が存在し続けているという現実があり、さらにインドパキスタンといった"Asian"や、東欧からの移民がそれを追い越そうとしている現状がある。そういう人がゴミ掃除をし、地下鉄を走らせているから、ロンドンの繁栄が存在しているのも事実だ。
 これほど欧州と近い距離にありながら、欧州連合の存在を意識せず(あるいは否定的な意識のみを持って)に暮らしている国民が多いのも事実だった。また、EUメンバーとはいえシェンゲン協定非加盟の英国の場合、入国審査は現存するし、ノルウェーやスイスのように、欧州の知られた先進国の中でEUに入っていない国がないわけでもない。それが「脱退」が可能だという言説を支えたのも事実だ。
 また、個人的な感想だけれども、ロンドンの金融街に集まるマネーの多くは、ロシア圏や中東、西アジアといった地域リスクがある(と思われる)場所に源を発している。アングラや迂回を含む形でこれらの地域の資金が、想像を絶する規模でシティに流れ込んでいる。今回の脱退で影響を受けるのは、英国人だけではないように思われる。

 実際のところ、英国経済の状況は、リーマンショックで打撃を受けたとはいえ、欧州他国と比べて決して悪くはない。問題はおそらく、「疎外」にあるのだろう。これはフランスにもあるようなのだが、フランスで疎外されているのは多くが票を持たない「移民」であったのに対し、英国で疎外されている中には票を持つ「国民」が含まれていた。そして移民や若者は今回、投票する権利を持たない。キャメロン政権は、おそらく少しばかり、経済成長の蔭で広がっていた「疎外」への目配り(警戒)を欠いたのだ。だから、国民投票という賭けが成立すると踏んだ。結果として、それは誤りだった。
 ただ、ルーマニアポーランドに医者がいなくなるほどに欧州連合(EU)世界から高度人材を集め、恩恵を被っているはずの英国民がなぜ不満を持ったのか。なぜ疎外が発生しているのか。その部分に思いをいたしている分析は余り多くないように思う。

「抜かれて悔しい」ってことじゃない。

bylines.news.yahoo.co.jp

「出張で忙しいので」備忘録的に。藤代裕之氏の取材申し込みを断っておいて、朝日新聞の取材を受けたって話。

 ヤフーの社長となれば忙しい。安易に取材に応じて余計なことをしゃべって問題になるリスクもあるので、インタビューを断ること自体は何の問題もない。仮にオバマ大統領、安倍首相、国会議員のような「公人」であったとしても、全員の取材申し込みを受けていたらきりがない。
 そこには必ず「選別」の問題が発生する。普通取材を受ける立場からすれば「影響力が大きく」かつ「好意的な」媒体から順番に受けていくのが摂理だ。コメンタリーしている人々の多くは、それを指摘している。

lineblog.me

 あるいは、もっと公的な機関では、それをオブラートに包んだ言い方をしている。よく批判される「記者クラブに加盟している社のみ」というやつである。警察や政権中枢などはもっと限定していて「加盟している社に所属していて、かつ記者クラブ員である記者」しか取材を受けない(加盟社の記者であっても担当が違えば取材できない)、というところも多い。加盟していないところ、人からすれば不愉快きわまりないと思うけれど。
 ではどうやったら記者クラブに加盟できるか、といえば記者クラブに「常駐」していたり、たとえば会社が「新聞協会に加盟」していたり、「既存社の推薦」も必要だとか。そういうことで「信頼性がある」ということを認証した、だから取材を受ける、ということにしている。

もっと進んで、閉鎖性が指摘されたこともあって、いま民間企業対象の記者クラブというものはあまりなくなってきている。個人、あるいは民間企業であれば上場企業ならば決算会見くらいはIRの一環として開催を求められる、という程度であって、株主でもない組織の取材を無制限に受ける義理は「基本的にない」。
 ただ、ここで忘れてはならないのは取材者側にも、取材を断られた経緯を開示する権利はもちろんあるということだ。ただ既存のメディアは「今後のつきあいもある」とか、「うちの会社が取材を受けてもらえなかったのは(プレステージが足らず)”恥ずかしい”」みたいなメンタリティがあるのか、これまで開示するケースがあまりなかった、ということにすぎない(ただ、これは必ずしも日本だけの慣行ではない)。

今回の論点は、ヤフーが「取材していく」「取材する人を応援する」組織=メディアであることを公式に標榜したところから起きている。こういう経緯で「取材を断った」組織なのであれば、ヤフー側から申し込まれた「取材を受ける」組織も同様の対応をする権利が発生する。世の中はお互い様であるからである。

まあ、それについてもヤフーニュース個人については「個人がそれぞれ申し込んだ取材である(=プラットフォームにすぎない)」ということで逃げることも可能だ(ただし、その逃げ方によっては、プラットフォームとしての価値を毀損するだろう)。

では、ヤフーが取材した「戦後70年企画」はどうだろうか。
この記事は@dragoner氏が後刻、サイト公開後に取材に関わったことを明かしたがdragoner.ねっと: 戦後70周年企画「シベリア還らぬ遺骨の今」公開について、記事自体は無署名である。また同テーマについて厚生労働省の担当者は「ヤフーニュースからの同行取材の申し込みがあった」と明白に答えていた。また、筆者である@dragoner氏のコメントにより、この記事の文責は著作権はヤフーニュース自身に存在していることも教えていただいた。つまり、ヤフーニュース自体が、この場面では、自ら取材する「媒体(=メディア)」として振る舞っていたことを意味する。
wararchive.yahoo.co.jp

 ある理由で取材を拒否するということは自由なのだが、これはメディアにとってのブーメランであって、その組織が別な組織に取材を申し込むときに、その理由で取材を拒否されても文句は言えないということでもある。
「影響力が少ないから受けない」という断り方を仮に表に出したとすれば、この裏返しは「影響力があるのだから取材を受けろ」という、傲慢とも取れる態度である(ただ、マスコミというのは本来的にそういうものなのではあるけれど、それを公言するのは全く別次元の話なのだ)。
 さすがにあまり快くないと思ったのだろうか。なので、ヤフー広報は別の言い方をしたのだが、それは虚偽説明という別のモラルハザード(倫理観の欠如)を産むことになった。ヤフーニュースがこれからこういった「自主取材」を拡大していくのかは公表されてはいないけれど、そうだとすれば、そう言う対応が「ニュース企業の倫理性」としてプラスなのかどうかということなのである。

 今回、藤代氏の宮坂社長へのインタビュー申し込みは相当前に行われていたと聞く。申し込みに対しては、長い間広報から承諾も、断りの返事もなかったのだという。ある程度知られていることだが、ヤフージャパンは代表電話がなく、広報の電話番号も公開されていない。つまり、メールの返事が来なければ、断られたかどうかを確認する手段がないので「黙殺された」と判断されてもしかたない(判断するしかない)。

 何度も繰り返すが、ヤフーは役所ではなく私企業であるから、(企業イメージが損なわれるかもしれないリスクはあるにせよ)そういう対応をすることは企業の選択として許される。広報が「忙しいから無理」とか「朝日新聞の大鹿記者が古くから懇意であって、知見を尊重している。なので取材を受けた」と説明するのももちろん自由だ。朝日新聞なんかの(失礼ながら)取材は受けないが、ニューヨークタイムズワシントンポストの取材なら受ける、という要人や、世界的な企業経営者は世界中にごまんといるのである。ただ、政治家であれなんであれ、「なじみの記者なら取材を受ける、そうでない人は相手にしない、そういう人なのね」と知られるリスクは負うことになる。

 ただここで、、広報が一般的に「担当責任者から語らせたいという宮坂本人の意向(つまり”誰であれどこの社であれ”このテーマの取材は社長は受けないのだ)」と説明するのは虚偽だ。虚偽説明をする企業はメディアとしての信頼を得ることはできない。しかもこの返答は、黙殺されているのでは、と疑念を抱いた藤代氏の再度の問い合わせに対してなされたものだと聞く。
これは「より良いメディア環境の形成を目指し、情報発信を担うパートナーであるコンテンツ提供者と協力していきます。パートナーの活動や役割を理解し、適切な情報提供が行えるよう努力します」と標榜する企業の態度とは相いれないのである。

 最後に、企業が新ネタを日経新聞にリークするのは企業広報の常套手段ではあるけれど、それに対し朝日や読売の記者が抜かれて「悔しい=つきつめれば媒体力が不足していて読者に申し訳ない」という感情を抱くこととは、今回の問題は問題の次元が少々異なるように思う。
 なぜなら藤代氏の「ヤフーニュース個人」は、せんじつめれば一つのブログであり、ヤフーがプラットフォームに過ぎないという立場をとり続けるなら、藤代氏が「抜かれ」たことに「責任を取るべき(有料)読者」は存在しないからである。
 藤代氏はヤフーと取引関係もなく、恒常的な取材対象ともしていない一大学の研究者であって、ヤフーに対して「配慮」をする「義理」なんてものは存在しない。つまり、「悔しい」と思う動機はないのであるから、断られた理由を好きなだけ開示する権利がある。「いつもお世話になっています」という言い方があるけれど、そうではないのだから。
 たとえば仮定の話として、ヤフー側が藤代氏の個人ページの記述を取り下げるよう求めてきたら、それも公開することもできるはずだ。運営するヤフーの側が「プラットフォームに過ぎないので、ヤフーという企業トップの対応とページの運営は切り離している」という態度なのであれば。
 なので、藤代氏にとっては、これはヤフー個人という「プラットフォーム」を使った公開質問状でもある。


という風に私は理解したのですが、どうでしょう。

理性でなく感情に訴えることの意味とは(遺族報道について思うこと)

 2016年が始まった。世界は(中東やら、北朝鮮やら)いろいろと動いているけれども、日本で何より話題をさらっているのは軽井沢の峠道でのバス事故のようである。亡くなった方に心からお悔やみを申し上げたいと思います。
 ガ島通信こと藤代裕之さんが「ソーシャルメディア時代の顔写真報道について考える」として、いわゆる遺族報道について丁寧に説明している。gatonews.hatenablog.com

 私は、記者という仕事を始めたときから遺族取材というものが途方もなく苦手であり、いまでも苦手なままである。その因果か、いまは少し(日本での)遺族取材から離れた立場で記者をしているけれど、少しだけコメントをしたい。

 シリアで何十万人という人が亡くなっているけれども、欧州(いや世界の)の政治を動かしたのは、トルコの海岸に打ち上げられた3歳の子どもの遺体写真だった。つい昨年のことなので記憶に新しい。遺体写真は日本のマスコミのコードでは原則として掲載することができないが、欧米のメディアでは多く掲載された。インターネットの時代なので、写真は日本でも見ることができる。
www.bbc.com
 洋の東西を問わず、匿名の死には人は感情を動かされないものなのだろう。感情を動かされなければ(つまり「自分に身近なこと」と感じられなければ)、市井のごく普通の人々は、なかなか意思表明することが難しいのかもしれない。第一に、みんなそんなに暇ではないし。
 欧州の高級紙では、いわゆる事件事故の犠牲者の顔写真をことさらに掲載することはない。これはいわゆる「理性」を道具に仕事をしている人々、たとえば弁護士、官僚、医師、研究者といった人々ー が、感情によって世論を動かすこと、たとえば遺族報道というもの全般に否定的な態度を取ることと関係しているように思う。
 こういった人々は職業上、感情によって自らが行動したことを認め、公言することはある種の「恥」なのだろうし、これは仕方のないことなのではないかと思っている。そういった方々は、報道においては、亡くなった人々の身上といった「つまらない話」ではなく、より事故原因の背景や、医療体制、あるいは法的規制といった”深い”報道をするべきだという論旨を展開されることが多い。もちろんそれはとても重要なことだけれども。
 つまり欧州の高級紙は「感情でなく理性で行動している」ことを誇りとする人(階級)が読むものなのである。レトリックを駆使した文章、語彙も難解だし「いち早く伝える」ことすらも必ずしも重んじられない。それゆえに部数も極めて少ない。*1

 ただ、理性を持った人々が唱えれば、正しいことがすんなりと政策化され、実行に移されれる世の中であるのなら、苦労はない、というのも事実だ。弁護士ですら、国賠訴訟では原告団を組織し「世論に訴えて」街頭に立つ。それによって、和解なりなんなりでそれなりの果実を得る、最高裁判決まで何十年もかかる間に原告が亡くなってしまう訴訟も多い。これも一種の制度の不備だと思うけれども。世論の「情」に訴えかけること、それは一概に否定されることでもないだろう。
 いまの民主主義政体では、何らかの思いを法的行政的な枠組みに落とし込むためには、つねに政治というものが間に入ることになる。その政治は、世論の動きに左右されざるを得ない。マスコミにいる人間からしても、世論とは変わりやすく、気まぐれで、やっかいなものである。しかも忘れやすい。
 人というものは匿名の大量死に眉一つ動かさない代わりに、実名の死のストーリーには(好悪いずれにせよ)感情を動かすのだとすれば。。。

 ただ時代は少しずつ確実に変わっている。古い交通事故のニュース報道を見れば、事故を起こした運転手に記者会見をさせ、遺体確認の現場にまで映像カメラが入っていた。かつては「何でもあり」だったことが分かる。ただ、センセーショナルに遺族の悲しみを伝えてきたことが、日本の乗り物を世界一安全にしてきたことも一つの事実だろうと思う。*2
www.youtube.com


 世論を動かす、なんておこがましいことを思ってはいないにしても 匿名でなく実名を追求することで、読む人、視る人に何がしかの気持ちを呼び起こし、何らかの制度改善につながれば、という思いで取材している現場の記者は多いと思う。興味本位の野次馬ではないのだから、そうでなかったら困る。*3現実は厳しいのだけれど、そうでなかったら、現場に立つ資格がないでしょう。
 今回の現場も各大学、各地に拡散していて、若い記者が大量動員されている(自分もかつてその一人だった)のだろうけれども、数合わせに終わったら、それこそ恥ずかしい。遺族の人生はこれから何年も続くし、事故の調査も数年がかりになることが普通だ。*4
 遺族は事故を忘れられることを恐れる。時間がたち気持ちが落ち着けば、さまざまな意味で世間に訴えかけたいと思う遺族も必ず現れる。マスコミ、特に影響力の大きいテレビメディアが真っ先に忘れるのが実態なのかもしれないが、それは悲しすぎる現実だ。
 フェイスブックツイッターで写真が公開されていると言っても、紙面化する以上はその写真が本人に間違いないかどうか、本人を確実に知る人に確認する作業は欠かせないはずである(なりすましもあるだろうし、そうでなかったらただの誤報だ)。逆に、大手マスコミが遺族報道を一斉に自粛して、匿名で淡々と事実を報じるだけだとしたらどうか。結局のところ「大手マスコミが報じない…」というソーシャル情報が拡散するだけなのだとしたら、そういった自主規制をしたとして、いまやどれだけの意味があるのか。そういう時代でもあるのだと思う。

*1:インターネットの普及によって、こういった概念も少しずつ変質しているのも事実だが

*2:逆に市民の側から「ゼロリスク」を要求することが当たり前になってしまったという悩みもある

*3:現場に行くと、そうでない人がたくさんいるのも悲しい事実なのだが

*4:そういう意味で、経験の浅い若手に遺族取材を任せるのがいいだろうか、という思いもある。またマスメディアの経営が厳しくなる中で、やがて人数をかけての遺族取材自体が態勢的に不可能になる将来も起こり得る

君知るや南の国、欧州と中東をつなぐ線(1)

 欧州への難民危機が、日本でも急にクローズアップされてきた。
これだけ現場発の報道があふれるテーマに書くべきことがあるだろうかと思いつつも、かつて中東に住んで仕事をし、少しだけ「普通の日本人」より事情に通じている人間として、自分の中の考えをまとめたいと思った次第。たとえば我が妻に語るように。「夫が妻に語る中東難民史」と思って読んでいただければ幸いである。


 欧州への難民流入というのは、いま始まったテーマではありません。
 いま、まさに騒然としているのはトルコからギリシャに海路で渡り、マケドニアセルビアを経由してEU圏のハンガリーに入り、最終的にドイツ(ないしオーストリア)にたどり着くというルート。ご承知のように、このルートはすでに全世界のメディアが追うテーマとなっています。www.47news.jp


問題は「彼らはどのような人々で、なぜいまなのか」。
基本的に彼らはシリア人だと考えられているのですがが、違う人もいるかもしれません。(これは後で書きたいと思います)

代表的な報道、たとえば英文ならば英紙ガーディアンが難民の方々の証言記事を掲載しています。 gu.com
日本語でも元朝日新聞の川上泰徳氏が、聞き取りをした記事を掲載しています(ただし1人)。mideast-watch.blog.jp
背景分析としては、このような分析記事もあります。www.47news.jp

 ただし、これらの記事を読むにはそれなりの背景知識が必要なのかもしれません。たとえばブダペストで彼らは「なぜ英語のプラカードを掲げて行動できた」のか。なぜ「ガーディアンのインタビューに答えられる」(記事にも書いてありますが)のか。つまり英語ができる、本国でも生活水準の高かった人たちが、少なくとも今回の行動では多くを占めているということなのです。

 シリアといえば、日本人にはほとんどなじみのない国でしょう。いまは内戦をしている、というくらいの印象だと思います。少し前の世代の方であれば、アラブ民族主義の旗手として、イスラエル中東戦争を戦った(そして負けた)国という記憶があるかもしれませんけど。かつてはフランスの植民地だった地域です。
 中東といえば石油を買ってくる国というイメージが強い(それしかない)日本人にとっては、ドバイやサウジアラビアの”湾岸”諸国に比べ、存在感が薄い場所です。シリアでも石油は採掘されるが、大量に輸出するほどには採れません。

 ただ、もう少し深く見ると、イラクからシリアに至る回廊こそ、「石油が採れる前の」歴史的なアラブ文明の中心的な存在であったことが分かります。文化、歴史的な蓄積は、湾岸諸国の比ではないですし、そういう面での知的な蓄積は深いのです。ちなみにシリア人は「もてなしの民」として知られていました。ただ長引く戦争の結果、気質が変わってきてしまったと嘆く声も聞かれます。。。
 ダマスカスの歴史は紀元前3000年、第2の都市アレッポの歴史は紀元前1800年にさかのぼります。同じく内戦状況に陥っている隣国イラクの首都バグダードメソポタミア文明、8世紀のイスラム帝国の首都だった時期に「人口は100万人を越え、イスラム世界の学問の中心地として各地から多くの学者が集まり、千夜一夜物語の多くの物語の舞台にもなった」(wikipedia)。古くから人が住んで、文明史の中心となった場所ですから、難民が生まれる状況に陥る前は、決して貧しい人ばかりが住んでいたわけではありません。
 そして、砂漠だけでなく、都市文明があるのですから、人口が多いのです。シリアの人口は2200万、イラクの人口は3500万。レバノン、ヨルダンを入れると、欧州の主要国1国を遥かに上回る(フランス、イタリアの人口がそれぞれ大体6000万人強)規模になります。この地域の政治が不安定な状態になったことが、欧州への難民を生む直接の要因になっています。

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 なぜ不安定になったのでしょうか。「アラブの春」を受けた中東の民主化運動と、それに対する既存のアサド政権との徹底的な対立、弾圧、内戦に至る流れがありました。その過程でアサド政権に反対するスンニ派イスラム主義者の中で、いわゆる「イスラム国」など、他宗派に対し過激な行動をとるジハード(聖戦)主義者が「アサド政権にまずはとにかく勝つという過程の中で」実権を握ったこと、これが直接の原因です。

 と書くと新聞の説明を引き写したようになってしまうのですが、なぜアサド政権への反対者が強かったのか、さらにシリアで異宗派、異宗教に敵対するな勢力が実権を握るとどう問題になるのでしょうか。

 歴史の古い地域にしばしばあることですが、シリアもイラクもそれぞれ、非常に複雑な民族、宗派構成になっています。というよりも、パレスチナを含めたこの(中近東の地中海側)地域に、民族や宗派による明快な国境線を引くこと自体が、もともと無理だったというほどの複雑さがあります。
 その中で第2次大戦後独立したシリア(とサダム・フセイン時代までのイラク)は、基本的に「アラブ人」を意識した、民族主義に基づく国作り(バース党指導による国家)をしてきたといってよいでしょう。イスラエルとの第3次中東戦争に完敗した後、アサド(父)が独裁的な権力を握りましたが、彼は人口の12%にすぎないアラウィー派(イランで政権を握るシーア派*1に近い教義を持つ)の出身の軍人でした。いまは英国から帰国したアサド(息子)が権力を握っていますが、スンニ派が7割を越えるシリアで、1割のキリスト教徒を足したとしても、アサド政権は少数宗派による政権を半世紀にわたって続けてきたことになります。

 一般的にいって、スンニ派とシーア派アラウィー派などを含む)などイスラム教少数派との関係は、良好とは言い難い状況です。多数派であるスンニ派にとって、少数派であるシーア派の人々は、地域内では同じムスリムという親近感ではなく、教義、儀礼の違いから嫌悪の対象と見られがちなのが、残念ながら実態だと思います。一方で、シーア派の人々はスンニ派を嫌悪しているかといえば、そうではないように思うのですが…。どんな区分であれ、少数派の側からは好き嫌いを別にして多数派とうまくやっていく必要があるということなのかもしれません。


 チュニジアに始まった「アラブの春」は民主主義を中東の地で具現化しようとする運動でした。だからこそ、民主主義の基本原理である「多数決」を具現化しようとする運動に容易に変わっていった、ということがいえると思います。チュニジア、エジプトでは比較的少ない流血で政権交代に成功しましたがエジプトでは反動が起き事実上の軍政に逆戻り、リビア、シリアでは内戦になりました。
 アラブのどの国でも、多数派は「敬虔なスンニ派のアラブ人」です。なので、たとえば「イスラム国」は「彼らの利益を極大化して代表する勢力」でもあるのです。しかし、彼らが権力を握った場合には、アラウィ派やキリスト教徒にとって、シリアに安住の場所はもはやない。さらに、民族的にみればシリアとトルコの国境地帯には「国家を持たない民族」である、多数のクルド人も住んでいます。

 アサド氏自身が「シリアで死ぬ」といっているように、アラウィ派全体の存在が抹殺されかねない状況では、和平などといっても絵空事にしかうつりませんし、スンニ派勢力も半世紀にわたって残虐行為を繰り返してきたアサド政権を許せる状況にはありません。
 さらに、シリアの政権が変われば、キリスト教徒が約3割を占め、イスラム教徒の中でシーア派の方が多い”地域”である、隣り合う小国レバノンにも容易に波及するでしょう。 日本で最も知られるレバノン出身者といえば、ルノー会長のカルロス・ゴーン氏だと思いますが、彼はキリスト教徒(マロン派)です。

 ユダヤ人による特殊な国家であるイスラエルを除いて、いま中東で地域的な広がりを持って影響力を行使できる「大国」は、イラン、トルコ、サウジアラビア、エジプトの4国と言っていいと思います(ただしエジプトの影響力は低下傾向にある)が、それぞれに民族、宗派上の特性があります。
 ちょっと視野を広げて、シリアの隣国イラクについても見てみましょう。全人口のうち、イランの多数派と同じシーア派が約6割を占めており、相互の関係は深いです(イランの現在の指導者にもイラク生まれの人間がいます)。さらに、イランのシーア派にとって、宗教史上イラクシーア派はイランに比べて信徒数は少数であっても「先達」であり、イランに政治、社会面で与える影響力が大きい(イラン人の中で、どれほど危険であってもイラクシーア派聖地に巡礼に行く人々は後を絶たない)のです。
 シーア派が絶対多数を占めるイランにとって、レバノンシーア派と連携するためには、シリアはスンニ派政権でない方が好都合です。さらにイラクイスラム国の手に落ちることは絶対に認められません。
 ただし、この論理は、サウジアラビアのようなスンニ派の大国にとっては逆になりえます。「シーア派(=イランとみなされる)が力を持ちすぎることは認められない」。宗派の相違だけでなく、そもそもイランはアラブ人ではないからです。同じ理由で、シリアの隣国であるトルコがシリアの内政に全面的に関与する可能性もあまり高くありません。シリアでなく、イエメンで起こっている内戦は、まさにこの図式が全面に出てきています(サウジアラビアと湾岸諸国の軍がシーア派組織に宣戦している)。

 トルコについてこれまで触れてきませんでした。今回の難民の流出にはトルコの動きが大きく関与していると考えられていますが、中東ゆえか、細かい意図までは明らかになっていないのが実情です。トルコはシリアと長い国境線を接していて、最多の159万人のシリア難民を受け入れているとされています。これまでにも書いたようにトルコはこれまでシリア情勢に深入りを避けてきましたが、一方でシリアの政権が弱体化し、クルド人の支配地域が増えることを警戒しています。
 クルド人の居住地域はトルコ東部にも広範囲に広がっていて、その独立は絶対に認められませんし、これまでも運動を弾圧してきた歴史があります。シリア難民の中でクルド人はそれなりの人数を占めているとされていて、難民として流入してくることで、トルコの民族紛争が激化することを警戒していると思われます。溺死した写真が世界に衝撃を与えた3歳のアイラン・クルディちゃんは、まさにその名の通り、トルコからギリシャに渡ろうとしたクルド人の一家でした。

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 ちなみにレバノンはわずか人口500万人の国に115万人のシリア難民を受け入れていますが、すでに国内にはパレスチナからの難民が50万人いました。レバノンはシリアと民族的歴史的なつながりが極めて深い国ですが、これは完全に限界を超えた数といわざるを得ません。。。

 もう一つ記しておくべきなのは、少なくともシリアはローマ帝国時代から「地中海世界」の一翼を担う地域だということです。日本でいう中近東という中でも「近東」にあたります。実際、欧州(特にウイーンなど中東欧あたり)からは指呼の間の場所なのです。さらにいえば、中東、欧州各国それぞれの間には旧植民地の宗主国として、戦後の労働力供給地としての人口流動、留学といった形で、日本人には見えにくい有形無形の人的な絆があります。難民が「なぜドイツに行く」と一様に言い張るのか、おそらく、こういった「縁」や「つて」が背景にあるのは間違いありません。
 中東の人は宗派の中でさらに親族、氏族といった「絆」でつながっています。いとこまでは家族同然に付き合います。植民地支配から、政治的不安定、抑圧、独裁などが続いてきたため、それなりに恵まれた一家の中でチャンスがあれば欧米(ただし多くの場合欧州)に若者を出し、永住権もとらせ、いざ身辺が危うくなればその関係を頼って脱出するということを常に想定しています。シリアから米国に移住した、そんな1人がスティーブ・ジョブズの父親でした。
 ロンドン、ウィーンのような大都市、スウェーデンなどにはそういった中東出身者の濃密なネットワークがあり、こういう脱出行の際の情報収集、移住の斡旋などでも機能している、なので「ドイツでなければならない」と主張しているのだ、と考えるのが自然です(ドイツには高度成長期にもともと労働力として移住したトルコ人の大コミュニティがあるのは有名です)。なので、日本が仮に受け入れるといっても、そう簡単ではありません。ペットショップの動物をえり好みするわけではなく、家族を抱える人間ですから。

(つづく)

*1:シーア派という言い方自体がスンニ派から見た”分派”という意味を含んでいるので、自分こそが正統だと考えるシーア派の人たちは自分たちのことを「シーア派」とは呼ばない、など、まあいろいろ複雑なのですが。

遠い太鼓に誘われて、ギリシャ、南欧を語ってみる

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 村上春樹が南欧に住んだ時期を綴った「遠い太鼓」という旅行記があることを知ったのは、まだ内戦さめやらぬクロアチアにいったときだったから、もう20年前のことになる。自分が初めて欧州の地を踏んだのは厳冬のポーランドだったけれども、東欧研究者だったのに実は南欧が大好きだったという師に漏れず、中年の境に入りかけた私も、こよなく南欧を愛する人間になった。
 本棚に積まれたままになっていた文庫を、ギリシャ国民投票の日に手に取ったのは偶然だ。モスクワに向かう飛行機で読み切った。

 この文章をモスクワで書いている。大方の予想に(おそらく)反して、国民投票では、欧州連合(EU)と国際通貨基金IMF)が求める財政緊縮策に反対多数の結果が出たと伝えている。いまのギリシャ人は、古代ギリシャ人の末裔ではなく、むしろバルカン半島のスラブ系の影響力が強いから、ロシア人にも、かの国の行方はかなり関心があるようだ。

 地中海世界である南欧は、古代だけでなく近現代の歴史にも富む。しかし、資本主義の基準でいえば、「南」は今も昔も、ドイツや北欧の「北」に比べれば、より貧しい。けれども、21世紀の南欧。スペインであれ、ギリシャであれ、旅人ですら少し目をこらしてみれば分かることだけれども、日本の公共事業の感覚ですら「分不相応」にみえるような真新しい高速道路や空港が作られ、走っていることに驚かされる。

 そういった設備を使って、太陽に恵まれないイギリスやドイツから観光客を呼び寄せる。それは「北」からもたらされたEUなりの名義による公共的な資金によるものだけれど、「北側から」の論理ではあくまで「投資」であって、いつかは返済されることが期待されている。リーマンショックによって、EUの無限成長(拡大)路線がついえた瞬間に、これらの投資の返済は難しくなった。それは南欧の人々の責任だろうか。

 「遠い太鼓」はベルリンの壁があった時代、いまから30年前の作品だけれども、村上春樹が住んだギリシャといまのギリシャ人が、そのころと何かが違っているかといわれれば、別に大きく変わったわけではない。人はそう簡単に変わらない。彼が書いたように、ギリシャ人は(それぞれの力量とは別に)誇り高く、ギリシャの冬はアンゲロプロスの映画のように凍える寒さであり、気まぐれな観光客は夏にしか訪れない。
ロードス島のホテル経営者は「観光というのは本当にむずかしい仕事なんです」「ギリシャは観光資源に恵まれているんだから、観光をいかして立国すればいいと言います。でもそういう風に国家を作ってしまうのはとても危険なことなのです。ちょっとした偶発的な風向きの変化で国家財政が揺らいでしまうことにもなりかねない」と語る。つまりそういうことだ。旅行というのは、生活に余裕がなくなったときに真っ先に削られる出費の一つだから。

 人が作った制度や社会には、それぞれの事情がある、と思う。ギリシャ古代文明遺物にひかれて、人はその国を訪れるけれども、社会の事情は、むしろその後のこと、それは南欧の複雑な近代史、社会史と裏腹になっている。ギリシャの労働者保護法制は、軍政へのアンチテーゼから生まれたものだ。軍政は社会主義陣営と戦うために、欧米が持ち込んだものだ。その前はナチス・ドイツが占領し、その前はオスマン・トルコだった。19世紀の独立戦争ですら、義勇軍を組織した英国のバイロン卿ほか「北」からの熱狂、一方的ともいえる思い入れの下で行われたものだ。そういったものは常に、庶民の上を通り抜けていっただけだったのではないだろうか。いまだって、そうではないといえるだろうか。

 ギリシャはかつて海運で栄えたが、それに関わることのできない大多数の市民は貧しかった。貧しい社会では、人は、家族は助け合うものだ。年金をもらいながらまだ働いているシニアが、一族を支えていることも多い。公務員が多すぎてというけれど、末端であれ公務員になるにには有力者とのコネが必須だ。歴史が古い社会では、国自体を改革するのは容易ではない。門番の息子は門番になる社会だとしたら、人はそういう風に生きていく。
 確かに、立派な空港や立派な橋は「誰かが」作ることを望み、それを使って観光客が押し寄せた。でも、彼らの国では、その変化や「発展」は、大多数の人々にとって「どこか他人が」決めたものなのだ。自分のあずかり知らぬ、関わることのできないところで決まったものごとの「責任を取れ」といわれて、納得する人間が多いはずがない。それは「災難」だ、南欧で何度も何度も繰り返されてきた。。。

 南欧の人は働かない、という。それは一つの事実である。けれども、それはどこまで本当だろうか。夏は本当に暑く、日本の比ではない。まともに歩いているのは日本人をはじめとするアジアの観光客くらいだ。観光客が朝飯を食っているころ、人々はすでに起きて働いているし、暑さが和らぐ夕方にはもう一度残りの仕事をする。夕飯を食べるのは午後9時を回る。冷房のない時代にできた習慣である。いまも冷房のない場所は多く、必ずしも非合理なものとばかりは言い切れない。

 確かに夏休みは長いけれども、それは「南」の国に限ったことではない。「北」の国の労働者保護もより徹底している。ロシアですら、法定有給休暇は21日間で、完全に消化される。育児休業は3年ある。
 働かない南欧の人々を日本から「北」の人々のように笑ったとして、では日本の財政はギリシャ並みに危機的だと指摘される。では休まず働いている我々の富はどこに消えているのか?東アジアと欧州の「どちらが特殊」なのか。

 旅行記は日本がもっとも世界の中で豊かになった時代、バブル経済を目の当たりにし「消費のスピードが信じられないくらいドラスティックに加速された」時代からみた南欧の姿が描かれているけれども、それからやはり時を経て、日本の社会はやはり成熟し、より世襲的に、より保守的になり、旅にも出なくなった。

 ギリシャには、寒い冬も来る。

「危ない」地域に行くということ

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 危ないことをしているつもりはないが、「危なくないですか」と聞かれることがある仕事をしている。シリアに行ったことはないけれど、中東に住んだことはある。ウクライナも行った。今住んでいるところも、日本人の感覚で言えば「安全」とは言い難いイメージのあるところだ。
 「危ない」ってなんだろうか。生きている限り日本であっても、東京であっても危ないことはある。東日本大震災があったばかりだ。
 いま、日本の男子文系大学生の就職ランキング上位は総合商社が占めている。商社は給料がよい。「安定している」。良い給料は何で稼いでいるか。決算書を見ればすぐ分かる。資源ビジネスだ。資源はどこで開発し、どこから輸入しているか。日本人が言う「危なそうな」国のオンパレードだ。アルジェリアでのBPのプラント襲撃で、日揮の関係者の方が多数亡くなったのは、まだ2年前のことだ。テロだけではなく、寒いのも、暑いのも、伝染病も相当に危ない。「危ない」ところに行かなければ、稼ぐことができない。東アジアのライバル、中国、韓国企業に負ける。競争はそこまで来ている。

 「業務ならば」危険なところに行くことが許されるのか。逆に業務であれば「行かなければならない」のか。(フリーを含め)ジャーナリストも業務である。ただ一般に小企業で資本の量が違うだけだ。功名心だと言うが、資源ビジネスにも功名心はある。企業の方から戦争中のイラクに「どうやったら(安全に)行けますか」という問い合わせを受けたこともある。
 もちろん使命感もある。「自分がここで書かなくて(撮らなくて)どうする」という現場もある。でもほかの仕事でもあるはずだ。開高健氏の小説ではないが、戦場記者(基本的にカメラマン)はちょっともてるらしい(自分のことではない)。しかし強い使命感を持った韓国のキリスト教系ボランティアがイスラム圏のアフガニスタンに行って拉致され殺害されたという事件もかつてあった。
 文化圏が違えば、強い使命感があれば何をしても許されるというものでもない。逆に、少なくとも倫理的に堕落していなければ、責められることはないはずだ。

 「日本外務省が行くな」というところには行かないのか。では逆に「日本外務省が行っていい」という外国で死んだら、日本政府のせいにできるのか。少なくとも自分は「日本政府の責任にできるから」と言って、負傷したり死んだりはしたくない。
 最終的な自分の命に対する責任は、国家でなく自らが負うものだ。少なくとも、自分は仕事に行くときは、国内であれ国外であれ、確実に無事に帰る、という確信を持つことができるまで準備する。
 紛争地で最高のホテル、頑丈な車に乗ることが常にベストとは言い切れない(目立つことで逆に狙われる危険もある)が、その方が一般に安全性は高いだろう。優秀なガイドがいれば、リスクは低くなる。優秀な機材と優秀な人はどこの世界でも高価だけれども、世界の果てで負傷すれば、緊急搬送に高額の医療費がかかる。無事に帰るのが一番安いのだ。
 よき戦争報道の条件は何か、と問われれば(必要な安全度が確保できるまで)待つことができる心の余裕と、安全上必要なときに惜しみなく投じることができる十分な資金ではないだろうか。

 日本の外務省の職員の方は、心ない批判があったり、実際やる気のない人も傲慢な人もいるのだろうが、現場では一生懸命やっている方も多いように思う。ただ、当然ながら外務省の人が「直接」稼いだり、「直接」報道することはない。だから、どうやったら稼げるか、どうやったらいい記事、映像が出るか、そういう面での情報収集や積極的な判断にモチベーションは向きにくい。「行かなければ(より)安全です」という方向に判断が向かうのも自然なことだ。

 人間が行動する限り、リスクはつきまとう。中東で「自分探しをしたい」と思っている若者たちにもたびたび会った。シリアは当時、中東でもっとも安全な国の一つだった(アサド政権が自国民を激しく抑圧していたから安全だったのだが)。若いうちに価値観の違う国を自分の足で回るのは、悪いことではない。危ないところになんか行かなければいいじゃないかといいながら、「最近の若者は冒険心が足りない」とか言っていたとしたら、それはひどい矛盾だ。彼らの判断を助けてやるのが、大人であり、国民の属する国家の仕事だ。

 今回の後藤健二さん、湯川遥菜さんの事件では、きわめて残念な結果になった。非武装の民間人を殺害するのは何であれ許されない。お二人は死亡した公算が大きいとされており、なぜイスラム国支配地区に安全に入って戻ってこられると判断したのか、どうリスクを評価したのか。具体的に知るすべはもうない。
 ただし、湯川さんが拘束された時点で、すでに”イスラム国”による英米のジャーナリストの殺害報道があったのだから、どのように安全が確保できるか、不測の事態(報道ではガイドによる「裏切り」も示唆されているが、案内者の信頼性についての評価も想定の中に入っていたはずだ)への評価は慎重に行うべきだった、とはいえる。
 もちろんそれは慎重に行っていたのかもしれないのだ。だから、一部外者が「軽率だった」と非難することは控えたい。今回の場合両氏には、所属する組織もないし上司もいない(もちろん組織記者でも、戦場の状況は日々に変わるので、現場判断にゆだねざるを得ない部分は多い)ので、その判断経緯は本人以外には分からない。

 伝えられているところでは湯川さんはシリア反体制派の軍事行動に同行したいという願望を持っていたという。その願望を聞いていた後藤さんは、湯川さんの拘束を知った後、自力で情報収集し、自ら奪還しようとして拘束されたとされる。
 湯川さんが「参戦」に行ったのでなければ、ある意味での”自分探し”や”冒険”に行ったことは、それ自身責められるべきことではない。*1イラクで命を落とした香田証生さんも同じだし、たとえばかつてカンボジアポル・ポト派に捕まり殺害されたカメラマンの一ノ瀬泰造さんも同じだ。
 それは根源的に言えば、ヒマラヤの高山に挑戦するのと変わらない。ただし(死に場所を探しに行ったのでないとすれば)自らの命を落とす結果となったのだから、それは誤った判断だ。仮に、湯川さんが死に場所を探しに行ったのならば、後藤さんを巻き込んだのだから、非難は免れない。

 私は山には登らないけれども、山登りを免許制にすると言ったら反対する。リスクを取るのは本来、自由意思であるべきだ。しかし、遭難したときには、献身的な努力をもってしたとしても他者による救助に限界があることも、また知っておくべきだと思う。

 そして、後藤さんがどれほど高潔な人格で、これまでプロの戦場ジャーナリストとしていかに立派な業績を残していたとしても、結果的にすべての目的を達成できなかったのだから、プロとしての今回の行動には疑問符が付く。プロは生きて取材成果を持ち帰って(昔はフィルムやテープだった)、初めて評価の対象になる。後藤さんは本当に立派な人で尊敬するべき人ではあったけれども、「英雄」ではないはずだ。
 そういう思いを一番深く持っているのは、もっとも近しい人たちのはずなのだが。

 国家とか、安倍政権とか、日本の中東外交の成否、交渉経過の是非、身代金の是非、そういったものを問うのは、そのはるか後でいいのではないか。さらにいえば、自己責任だと主張し「政府に迷惑をかけるくらいなら自決せよ」とまで言う人々と、「安倍政権の判断ミス」だと声高に主張する人々は、いずれも価値判断の根を「日本政権」と「反日本政権」によりかかっているという点で同根だ。
 人の命はかけがえのないものである。命を一番大事に思っているのは本人だ。国家や周囲の人々はさまざまな情報を提供し、判断を支援し、若者であればあるいは説得もするかもしれない。だけれども、危険の判断を行うのは、最終的には本人の人格であるべきだ。

 もちろん、行く側の「リスク」だけではない。今回の事件には殺害した容疑者がいる。その組織「イスラム国」ととイスラム、そしてムスリムイスラム教徒)について、日本であまりに理解されていない、そしてそれを不十分なままに大量の報道が積み上がっているという悲しい現実についても思うことはあるのだが、それは機会があればまた。

*1:一応、私戦予備罪を構成する可能性がある、という理解はもちろんした上で